フシギにステキな素早いヤバさ

フシギにステキな素早いヤバさを追いかけて。俺は行くだろう。

飛び出すときを待つ過去の文章たち(2)

孤独に音楽の批評言語や、J-POPの形式的な記述について考えていたときの文章です。これも未完ですが、こういう発想はいずれ育てていきたい。

第一章 反復感と反復性(2007年)

はじめに


この論考では、私たちの今後の音楽創作において、いわゆる「オリジナリティ」を追求するための理論的な枠組みを築くことが目ざされる。以下に述べられるように、これまでの私たちは、さまざまなライブハウスで散見されるだめなバンド群、つまり、彼ら自身の享受する音楽データベースから彼らに観察された記述的な事実を無批判に規範化し実践する下賤な*1バンド群について否定的に考えるあまり、結果的には、良い意味での「模倣」と「パクリ」との区別についてさえも判断をさけようとし、これまでは自閉的な、原理的な音楽実験のみによって音楽創作を考えてきた。
いうまでもなく、私たちのそのような試みは成功したと僕には考えられる。なぜならば、新宿アンチノック Antiknock でしばしばほめられるようなことの音楽的事実は、私たちの努力してきた点と一致しているように僕には思われるからだ。つまり、ナガクモ―これは私たちのバンドの名前である―は、あるひとつの天井に達した。
ここに至り、ついに、私たちは、私たちの志向する音楽のため、私たちの愛する人々がつくる音楽の諸事実から、批判的な方法によって、規範的な事実をみいだすための方法を模索し、これを試みることにしよう。


私たちは、これまでの私たちが音楽について語るときの言葉を整理する作業によって、私たちの音楽についての解釈をふたたび見直してみたい。なぜなら、音楽の作曲・編曲および演奏においては「言葉」あるいは「概念」が重要な役割を果たすからである。
第一に、音楽では、とりわけ演奏活動では、コミュニケーション行動がつねに必要とされるという事実を考えてみよう。たとえば、音楽の練習スタジオで、あるバンドのメンバーが集まったとき、編曲過程にある楽曲の、演奏とその表現についてのやりとりは、具体的には言葉を通じて行われる。そこでしばしば苛立ちを伴ってあらわれるコミュニケーション上の問題は大きく分けて二つある。同一の言葉が、使用者の使用の内部でも、また使用者間でも、多様な意味を指すためにそれが使われることで起きる、ディスコミュニケーション・ウィズ・アザーズの問題と、そしてもうひとつは、そこに何か言及したい現象が認識されていながらもその現象を適切に指すための用語が即座には見つからないことで起きる、ディスコミュニケーション・ウィズ・マイセルフの問題である。いいかえれば、この二つは、用語・概念の使用方法の問題とその使用能力の問題である。
社会学者・哲学者である大澤真幸佐々木正人の解説を引用してこのような問題についての興味ぶかい観察を示している。なお、佐々木はそこで、 Vygotovsky の描画についての観察を引用しており、次は、その観察の引用である。

子どもは、ある時期になると、自分が描いた線の軌跡(大人にはほとんどランダムな線に見える)に、さかんに名前を与えようとする。そして、いったん、名前が与えられると、描画は、名づけられた事物の表現として、完成し、収斂していくという。たとえば、ある2歳2ヵ月児は、偶然自分が描いた線が何かに似ていることに気づき、これを「顔」と命名することに成功すると、続いて描かれた線は、顔の表現として急速に完成度を増した。通常は顔が描けるのは3歳児程度であるとされているので、この児童の場合、命名の成功が、行動上の著しい発達をもたらしたことになる。このように、言語的な同一措定は、行動の同一性を確定し、それに統一性を与えるわけだ。このように、言語の発達と行動の発達は別のものではない。*2

過去の私たちの音楽の諸活動、すなわち楽曲の作曲・編曲および演奏、とくに作曲活動においては主にナンバーガールが参照され、その音楽傾向が解釈されることによってそれらの方法論的規範は構成された。

(変化したい。変化したいが、いまや私たちの音楽は変化したいために反復される。私たちの音楽においてはいまや変化が強く志向されるからこそ反復が必要とされるのである。したがって、教科書として私たちが参照するところのナンバーガールの音楽もそのように解釈されるべきである。あるいは再度そのように解釈しなおされるべきである。)
(形式的・記号的に楽曲を構成するためには、記号的記述によって操作されることを保証する反復感が定義されなければならない。)

〔メモ〕
●本論は演奏概念の要素を、規範的=譜面=反復性と記述的=解釈=反復感という対立図式によって分類することを目的とする。
●また、記述的な解釈から規範的な解釈にいたる際に生じる論理の飛躍を指摘することも目的とする。
●最終的には、第二章においてその論理を見直してさらに可能な別の論理を提示することで、私たちのための新たな理論を確立することを目指している。

1 記述的、規範的


【記述文法】ある言語圏の一時代の文法現象の体系をあるがままに論述するもの。
【規範文法】ある地域で、そこの人々が手本とすべきとされている話し方、書き方を支えている規則の総体をいう。*3

音楽における個性とはどのような要素をさして用いられてきたのだろうか。つまり、ジャンル名やバンド名を参照してある音楽が批評されるとき、そこで問題となる「パクリ」性とはどのような要素をさしているのか。、あるいは、パクリに対するオリジナリティ、つまり、個性があるとみなされるものをそうでないものからみわけさせている要素は何であるのか。たとえば、前者は他の音楽を参照しながら規範的に捉えて、より規範に近い形で演奏しているとし、また後者は記述的に捉えて、さらに抽象的な分析を経てから規範的にとらえなおしているという仮定の元に、私たちは分析をすることができる。
具体的にいえば、それはこう言い換えることができる。
音楽は、映像表現(映画、アニメなど)とも併せてたびたび指摘されるように、不可塑的な特性をもった芸術である。それゆえ、私たちには音楽が、原則的には受動的な「聴く」という動詞によってしか享受されない。つまり、もしも私たちがある楽曲を聴いているとき、私たちには理解できない箇所に遭遇したならば、もう一度その箇所を聴きなおしたいと思ったとしても、音楽そのものは私たちのその意思を無視して前に進んでいくのである。
この特性は、音楽と映像のどちらについてもが、その非物質性に起因していると考えらる。そのどちらもが私たちの手には触れられない、したがって、私たちにはそれを手につかんで任意の位置に引き戻す可能性が与えられていない。つまり、これが音楽の不可塑的な特性と呼ばれるものである。
しかしながら、もちろん私たちには音楽を物質的な媒体を通すことである程度までは可塑的なものとして体験することもできる。記憶、楽器演奏、楽譜、再生装置(カセットテープ、CD、MD、iPod、…)などによってである。書籍や漫画、絵画が物質的な操作可能性をその享受のうちに一次的な性質として含んでいるのに対して、音楽と映像の操作可能性はあくまでも二次的なものであり、逆にいえばこれらは本質的には操作不可能なのである。

音楽をなんらかの方法で楽曲形式的に区分することについて考えてみよう。私たちには第一に、あるひとつの楽曲をおおまかに三つの部位に区分することができる*4。この事実はひとつの楽曲が私たちの音楽認識において構造的に、ある反復の図式をもって理解されることをあらわしている。
この反復構造の認識、つまり、「1番」、「2番」というくりかえし構造の認識が、実際には楽曲中に内在する明確な構造から直接的に引き出されているわけではないことは、やはりナンバーガールの「透明少女」の構造分析の例からしめされる*5。このような事例はJポップにおける規範的な楽曲形式である「1番→2番」という構造、言い換えれば、「Aメロ→Bメロ→サビ」×2という有名な図式によっては説明しがたい。このような図式から説明を試みれば、「透明少女」は、構成上破綻しているといわざるをえない*6。そして、その構成を破綻させているのは、まさに伝統的には「2番Aメロ」であるべきのパートが、もはやそれとは認められないほどに変形された「だけ」にすぎない。

いずれにせよ、解釈1、2のどちらもが「透明少女」の楽曲形式を、ある反復性をめぐる概念によって説明しようとしている。このような説明のしかたを記述的な説明ということができる。当然ながら、AメロとBメロという概念が厳密に共通に定義されないかぎり、両者の解釈はどちらも正しくかつお互いに矛盾しない。
実際上、このような記述的な分析はすくなくとも楽曲鑑賞の文脈においては私的な場に属するのであり、その概念の定義が初めて問題となるのは他者との議論の場においてである。

ところが、演奏の場ではこの定義はアプリオリになされてきた。つまり、私たちの各々によって暗黙に「Aメロ」という概念は規定・定義され、作曲・編曲上のひとつの単位として用いられてきた。
それでは、なぜ、どのように、その概念の定義は暗黙になされえたのだろうか。その定義は、おそらく、作曲者自身の音楽上の文化的な下地から経験的に導き出されたものと考えられる。私たちのオリジナルの楽曲の作曲・編曲においてあるフレーズがAメロとして共通に理解されているとすれば、それは他の楽曲を参照することによってなされている。たとえば、最初にナンバーガールの「透明少女」が参照され、「赤いキセツ到来告げて」から「記憶・妄想に変わる」までがAメロであるという共通理解が確認される。次に、したがってそのような意味で、このフレーズはAメロであるという指示の伝達が行われているのである。このように私たちは音楽構造の共通理解を、暗黙の経験的な定義を媒介しておこなっているのである。
これは、言い換えれば、特殊事例であった「透明少女」の楽曲形式にかんする記述的な説明を創作上の方法論として規範的に捉え直し、楽曲構造の一般形式として規定しているということである。記述的な説明から規範的な定義へ。そこでは必然的に、論理上の飛躍が行われている。
この飛躍は論理的な手続きによって行われていると考えられる。しかしながら、その論理の手続きはあまりにも迅速に行われるため、私たち自身にさえ把握されていない。その過程を今いちど丁寧にたどり、冗長な論理仮定として記述することが、本章における私たちの目的である。

(未完)

*1:「我々は、そこらへんの下賤なバンドとはちがう」、濱田祐の発言、二〇〇七年

*2: 『身体の比較社会学 1』、勁草書房、一九九〇年、八九頁、注9。

*3:日本国語大辞典第二版 第4巻』(小学館、二〇〇一年)

*4:たとえばナンバーガールの「透明少女」の1番は「赤いキセツ到来告げて」から「気づいたら俺はなんとなく夏だった」まで、2番は「赫い髪の少女は」から「彼女は『涼しい』と笑いながら夏だった」まで、3番は「透き通って見えるのだ」から最後まで、というふうに三つに区分することができる。

*5:前注で挙げたナンバーガールの「透明少女」の1番は「赤いキセツ到来告げて」から「気づいたら俺はなんとなく夏だった」まで、2番は「赫い髪の少女は」から「彼女は『涼しい』と笑いながら夏だった」および「透き通って見えるのだ/狂った街かどきらきら/気づいたら俺は夏だった 風景/町の中へ消えていく」まで、3番は「はいから狂いの少女たちは」から最後まで、というふうに三つに区分することもできる。

*6:解釈は次の2通りが考えられる。//【解釈1】「気づいたら俺はなんとなく夏だった」がサビだとすると、「透き通ってみえるのだ/狂った街かどきらきら」は新しい第2のサビ、とすると「はいから狂いの少女たちは」は第3のサビということになり、説明がつかない。第3のサビは伝統的にいって存在しない。//【解釈2】「透き通って見えるのだ」がサビだとすると、「赤いキセツ到来告げて」から「彼女は『涼しい』と笑いながら夏だった」および「透き通って見えるのだ」までは「Aメロ→Bメロ」×2→サビという構造と解釈される。しかしながらこの構造が反復されないかぎり「Aメロ」「Bメロ」という機能はそもそも認められない。つまり、「Aメロ→Bメロ」×2→サビ→「Aメロ→Bメロ」×2→サビ、あるいは「Aメロ→Bメロ」×2→サビ→「Aメロ→Bメロ」→サビのように2回以上の反復がなければそのような機能はわりあてられない。実際にはこの曲は「Aメロ→Bメロ」×2→サビ→「変形Aメロ→Bメロ」→サビという構造をもっている。

飛び出すときを待つ過去の文章たち(1)

2007年ごろにほぼ孤独に書いていた文章です。誰のためでもなく、自分のバンドやともだちのバンドを理論的にとらえなおすために書こうとしていたのだと思います。
今は他に優先したいことがありますが、準備が整ったら書きたいことがたくさんあります。
そのプレゼンのようなものです。
これは新しい音楽への批評のために(2007年) - フシギにステキな素早いヤバさにある程度完結した形を与えるためにとり外された未完の部分です。

NUMBER GIRL のリズム)

その音程関係とリズム関係とに注目しながら、ナンバーガール NUMBER GIRLイースタンユース eastern youth の反復志向について考察を試みる。ここで目指されるのは、批評用語の体系化である。先に示した批評用語の第一形態とは、「ナンバーガール的」、「イースタンユース的」のような、喩えの表現技法であった。さらなる分析のために、「ナンバーガール的」とは何か、その表現を安定させる状況とは何の要素からなるのを、より抽象度の高い用語によって規定しなおすこと、以下ではそれが目指される。

はじめにナンバーガールのベストアルバム『オモイデインマイヘッド 1』*1に収録された楽曲によって彼らのリズム志向の変遷を指摘したい。彼らの音楽について一言でしばしば言い表わされるのが「直線的」で「鉄」のイメージを持つことである。もちろんこれはボーカル(=向井秀徳)の発言に由来する。この言葉のイメージがもっとも端的に理解できるのは楽曲「鉄風 鋭くなって」についてである。以下私たちは、ナンバーガールの音楽の特質をそれら二つの言葉・概念に求めながら、彼らの音楽性を概観したい。

「イギーポップファンクラブ」*2のイントロでは、1小節の長さで構成されたパターンが、3回の同形反復と1回の変形反復の組み合わされたものとして観察される。これはのちに「透明少女」「鉄風 鋭くなって」において指摘されるような、焦燥感のあるナンバーガール的な速さに比べればはるかにその回転速度は遅い。したがってこれを標準的なロックの回転率である4分の1の回転率を持つ楽曲だと呼ぼう。この頃のナンバーガールは、イースタンユースにも共通するような反復性を志向すると説明されるのである。

「ドランクンハーテッド」*3のイントロでも、4分の1の回転率が観察される。

「透明少女」*4では冒頭の田淵ひさ子のギターによって4分の0・5の回転率がついにあらわれる。つまりそこでのパターンの基本単位は2拍である。そしてこの楽曲こそまさにナンバーガールの硬直した反復強迫性を代表するものと指摘されるだろう。


同じ4分の0・5の回転率を持つ「鉄風 鋭くなって」とこれが区別されるのは、コードが進行するかの区別による。つまり、「鉄風 鋭くなって」では具体的には次のように、ベース(=中尾憲太郎)においてコードが2拍ごとに切り換えられる。結果的に、それは4分の0・5の回転率でどんどんと時間が前進するような感覚を私たちにもたらす。一方、「透明少女」では右ギター(=田渕ひさ子)においてひたすら同じ高さのコードが2拍ごとにくりかえされる。

鉄風 鋭くなって」・ベース ‖♪♪♪♪|レ♪♪♪♪|♪♪♪♪|レ♪♪♪♪‖
(*かつて僕の表記で「レ」印は、そのポイントで音程が上がることを示していました。)

「透明少女」・右ギター ‖♪♪♪♪|♪♪♪♪|♪♪♪♪|♪♪♪♪‖

(未完)

*1:OMOIDE IN MY HEAD 1 〜BEST & B-SIDES〜』、東芝EMI、二〇〇五年。同アルバムは2枚組み。以下ではオリジナル録音の収録ディスクタイトルと、同アルバムでのディスク番号およびトラックナンバーを示す。

*2:ナンバーガール、1997a=2005:1-1。

*3:ナンバーガール、1998a=2005:1-2。

*4:ナンバーガール、1999a=2005:1-3。

飛び出すときを待つ過去の文章たち(3)

さらに、これは(2)の続きです。結構大部の本が書きたかったのでしょう。未完。
昔はこれを読んで喜ぶ人はいなかったです。これからもいるかはわからないです。
トゥギャッター、Twitterで反応があることが嬉しいですが、自分のやってることが本当に人にわかること、面白いと思われることなのかはつねづね不安です。
だがこの文章を見ても過去の自分を笑うことはできないし、そして気合はあるだろうと思うから、分かる人はわかってやってください。僕は熱いんです。


以下を読むときに注意したいのは、僕がなにかしら大きな文章を書こうとして、苦心しながら適当に章や節を構えて、これを内側からじりじり書き足していく過程の文章であるということです。各節において文章は途中で終わっていたり、細部が書かれていなかったりします。

第二章 規範的=譜面=反復性(2007年)

はじめに


本章の目的は私たちの音楽分析の基本的な用語・概念である〔反復〕について、共通の理解を築くことにある。私たちの分析対象であるJポップにかぎらず、一般に音楽では、さまざまなレベルにおいて反復の構造がみられることはいうまでもない。
たとえばスピッツの「チェリー」を例にとって考えてみよう。それは「1番」と「2番」という楽曲形式をもつ。さらに細かく見れば「1番のAメロ」「サビ」と呼ばれるような楽曲中のパートレベルではあるひと区切りのフレーズが何度か繰り返されていることも指摘される。「きみをわすれない 曲がりくねった道を行く 生まれたての太陽と 夢を渡る黄色い砂」/「二度と戻れない くすぐりあって転げた日 きっと 想像した以上に 騒がしい未来が 僕を待ってる」のようなメロディーの繰り返しがその例である。さらにこの曲は4拍子という基本拍子をもっている。「君をわすれない」/「曲がりくねった道をゆく」のようなひとつのメロディーの中でも、4拍子という幅を持っている。そもそも、「きみをわ」という冒頭のフレーズは、その音程関係のみに注目すれば、「き」に始まる同じ高さの音が、4回繰りかえされて構成されている。
このような反復の構造を音楽の基本原理として見たとき、私たちに感動を与えるあの微妙なあるいは劇的な変化、つまり楽曲のさまざまな箇所におけるメロディーやリズムの官能的な多様性は、ある基本的な単位の繰り返しになんらかの「変化」が与えられたものとして、私たちには捉えられるだろう。いいかえれば、その多様な音楽的芸術性は私たちにとって、人工的な変化の美によってもたらされるでのある。
以上のような考えに対して本章では懐疑的な立場がとられる。つまり私たちは「音楽―人工的変化の美―」説を否定し、それに代えて「音楽―人工的反復の美―」説を提出する。しかし正確には「音楽―人工的変化/反復のデザインとしての―」説を提出するべきだろうが、そのためには次に筆者によって書かれるであろう論考を待たねばならない。

1 私たちは編曲において用いられる「機械的にくりかえす」と「変化をつける」という語の用法を確認する


過去の私たちの音楽観によれば、ある楽曲におけるひとつのパターンは自律的にくりかえされるものとしてアプリオリに捉えられた。そして、私たちのそのような認識によって、ある楽曲についての編曲行為とはそのくりかえしの自律的な構造に対して人為的に変化が加えられる行為であるという結論が導き出され、また実際にも私たちの編曲行為はこうした観点から行われた*1
私たちのこのような音楽観は、具体的には「機械的にくりかえす」「変化をつける」という、編曲においてこれまでに用いられてきたふたつの語にあらわれているといえる。たとえば、ひとつの楽曲の構造が編曲の実践の場においてひとつのバンドの名のもとに構成される際、まず初めにひとつのパターンが発案者によって提示されるが、かならずそれに次いで、そのパターンが楽曲中の任意のパートにおいては何回くりかえされるべきかが指示されなければならないし、さらにまたそのくりかえしのうち、何回目までは機械的にくりかえされ、また何回目においては変化をつけてくりかえされるべきかが発案者によってやはり指示されなければならないのである。
ここにおいて注意深くみれば、「変化をつける」という指示は、実は広い意味では「機械的にはくりかえさない」という指示の言い換えにすぎない。つまり、くりかえしの様態をそのように指示するときの私たちの語用の根底には、パターンが自律的にくりかえされるという認識が、すなわち楽曲構造を成立させる基本原理はひとつのパターンが自律的、機械的にくりかえされることであるという認識が、自明の前提として含まれている。
いま、私たちは次いでくる私たちの時代のその音楽のために、これまでの音楽観からいちど離れ、強烈に論理的に、方法論的に思弁したいと決心する。そのため、本論は、以降に論じられる新しい観点に基づいて導かれた「継続」「反復」というふたつの概念を提示し、私たちのこれからの音楽創作における理論的な礎をそこへ向けて築くことを目的としている。その新しい観点とは、端的にいえばさまざまな楽曲において一般に経験的に観察されるくりかえしの構造を、前に述べたような音楽の自律的な構造によってではなく、それとは別の方法によって説明することである。言い換えれば、楽曲のくりかえし構造の基本原理を、むしろ時間軸に沿って自律的に継続する性質として捉えなおすことで、そこで普遍的に観察されてきたくりかえしの構造は私たちによって積極的に音楽に与えられるべきものであると説明しなおすことである。

2 〔継続〕と〔反復〕の定義


はじめに、ミスターチルドレンMr.Children の「箒星」のイントロを思い出すことで私たちは〔反復〕の概念について考えはじめることにしよう。そこで聴かれる①(譜例参照)のような4小節単位のギターリフパターンは、このイントロにおいては2回反復されている。つまり、私たちには「箒星」の曲頭からボーカル(=桜井和寿)によるAメロの歌いだしまでの時間は「イントロ」というひとまとまりの閉区間として観察されるが、それと同時に、その閉区間は、ギターリフのパターンつまり①が2回反復されるというふたまとまりの区間としても観察されている。
ある特定の楽曲を視聴するとき、私たちには、そのように一定の時間幅をもった部分的な閉区間を見出すことができる。さらに、連続する2つのそれらの閉区間について、私たちにはそのように、たとえば、〔反復〕という関係を見出すことができる。そして、さらにこまかくみれば、その〔反復〕の関係には〔同形反復〕かまたは〔変形反復〕の2つがあることも私たちには指摘できる。
それら2つのパターンには、それぞれ、当然ながら始まりと終わりがある。つまり、それぞれがある個別の閉区間として観察される以上は、私たちには無意識にせよ、その起点と終点との存在が認められているだろう。なぜならば、そもそもパターンとはそのような始まりと終わりが認識されないかぎり私たちの前には現われ得ないからだ。そうでなければ、私たちにはそれらは無区別に〔継続〕するものに他ならず、したがって、それぞれが別個にひとつのパターンをなしているとはそもそも認められないからである。つまり、その首尾の構造に基づいて〔切断〕されなければ、そもそもそれが2つのパターンからなることは証明されないのである。言い換えれば、わたしたちが〔反復〕の関係をある特定のパターン間に見出し得るのは、その2つの首尾の存在を示す〔切断〕の構造が、ある〔継続〕する楽曲の音楽的線分の上に見出されるからであり、したがって、その〔切断〕の構造が2つのパターンを〔接続〕することによってそれらの間に「関係」が存在し始めるのである。したがってまた、私たちには次のようなことが言えるだろう。
ある音楽的線分上で、つまり具体的にはひとつの楽曲において私たちにとってある種の反復性が認められるとすれば、そこには必ずその線分が切断される箇所がある。そのとき、切断された箇所の時間的に言えば前の方と後の方では、それぞれひとつずつのパターンの存在が私たちには認知されている。そして私たちはそのパターンの間に、論理的な意味での「関係」を見出すだろう。そしてその基本原理として指摘されるのが〔同形反復〕あるいは〔変形反復〕という論理関係である。
もちろん、音楽においては反復現象こそがもっとも基本的に観察される原理であることは言及するまでもないが、それではなぜその現象は、たんなる「同じ equal」「違う not equal」のような等式的な論理関係でも、「合同 identical」「合同でない not identical」のような図形的な論理関係でもなく、〔同形・反復〕〔変形・反復〕のようにかならず「反復・かつ」を判断条件に含む論理関係としてのみ見出されるのだろうか。


その時間芸術性、すなわち直線的でありかつ不可塑的であるその性質から、音楽はつねに〔継続〕するものとして観察される。そこにおいて〔反復〕とは、現象としてまったく同質の継続性が、時間直線上のある閉区間において経験的に観察されることを指す。
直線的な時間性、不可塑的な時間性、および音楽がつねに継続するものであるということの意味、および、その意味において継続性が同質であるということが具体的に何を意味するかは以下で論じられる。また、そのような概念群の設定を経た上で、音楽がそれらを用いて実際にはどのように分析されるかが示される。


まず、直線的な時間性とはどういうことだろうか。そのことについて具体的に考えるためには対照的な概念として(=対概念として)非直線的な時間性という観点をそこに導入しなければならない。
時間芸術、すなわち小説、映画、演劇、ダンス、音楽、漫画、アニメのような諸芸術は、大きくみれば、直線的な時間性を持つものと非直線的な時間性を持つものとの二つに分けられる。もちろん音楽は小節レベルで見れば同様のリズムが何度もくりかえされるのであるから、その反復性に注目してその性質を非直線的ではないものに分類することもできるだろう。しかし、音楽の反復性について考えるため、ここでの私たちには、それを考えるための準備段階としては、音楽のその反復性が見出されないものとして想定する。つまり私たちは音楽の反復性から出発して音楽の継続性を考察するのではなく、音楽が基本状態としては継続し続けるものでありながら、なぜそこに反復の構造が見出されるのかという立場によって考察する。
哲学者・批評家である東浩紀は、一九九八年に発表されたジャック・デリダ論において次のように述べる。

「war」という同じシニフィアンは英語とドイツ語では異なるシニフィエをもち(恣意性の原理)、その複数性から「war」の多義性は導かれる。したがってその複数性は「war」の運動以前には考えられない。にもかかわらず多義性の志向は直線的な時間性を採用し、「同一性」の複数性、つまり英語やドイツ語といった言語(ラング)あるいはコンテクスト(記号を規定するもの)の存在を、記号の単数性(エクリチュール)より過去に想定してしまう。つまり意味の複数性が、「war」の運動とは独立して捉えられる。これが転倒と呼ばれる。多義性の思考は記号を規定するものから出発し、その結果前述のようなアポリアに行きつく。「エクリチュールの地平」をデリダが必要としたのは、非直線的な時間性の導入によってその論理的な罠を回避するためだ。*2

東によれば、デリダはいくつかの論文で、「同じ même」と「同一的 identique」というふたつの形容詞を用いており、その区別は異なったコンテクストにおいて規定される「同じ」記号というときの「同じ」とは何を意味するのかを分析可能にするために要請された区別であるという*3
このことは私たちが第一章で検討したような「反復性」と「反復感」を区別することとほとんど重なる。音楽においてもまた「反復している」というとき、その「反復」が何を意味しているのかははっきりとしない。音楽における抽象的な「反復性」とそれが実際の具体的なレヴェルであらわれたときの「反復感」とに区別をするならば議論は多少とも明るくなってくる。音楽の反復性


過去の私たちの音楽の諸活動、すなわち楽曲の作曲および演奏において、とくに作曲においてはナンバーガールが参照され解釈されることによってそれらは構成された。
これまでの私たちの解釈をもう一度整理しなおすことによって、音楽についての解釈をふたたび見直してみたい。
変化したい。変化したいが、いまや私たちの音楽は変化したいために反復される。私たちの音楽においてはいまや変化が強く志向されるからこそ反復が必要とされるのである。したがって、教科書として私たちが参照するところのナンバーガールの音楽もそのように解釈されるべきである。あるいは再度そのように解釈しなおされるべきである。
形式的・記号的に楽曲を構成するためには、記号的記述によって操作されることを保証する反復感が定義されなければならない。

3 おおまかな区分


Jポップにおいて楽曲が構成される際、作曲編曲といった抽象的な作業は何に基づいて行われるのであろうか。言葉の面から考えてみよう。Aメロ、Bメロ、サビといった概念は歌メロのありようを構造の面から類型化することによって得られるものである。端的に言えば私たちの音楽活動において音楽の構造は一般のポップスやロックミュージックで参照される用語が用いられて捉えられているのであるから、その根底に歌中心の考え方があることは間違いないのである。
Aメロ、Bメロといった区別は歌メロにおける反復の構造によって認知される。その反復の構造は、ひとまとまりとして認知されるパターンが複数回繰り返されることによって構造上規定される。

4 反復構造の分析


その首と尾が形式上に示されてはじめて、一つのパターンはまとまったものとして私達には認められる。あるひとまとまりのパターンにおいては全体の中の尾部がもっとも変化する部位でなくてはならない。
私たちは具体的な構造について、実際に「透明人間」のイントロを分析し考察をしたい。譜例では小節線によって、一見ひとつのまとまりが構成されているように見えるけれども、同じリズムパターンについて小節線がはずされて書きなおされると、あたかもほとんどパターンの区切りは見出されない。
以上のリズムパターンについて2小節ごとに一つのパターンを構成する事は困難であった。けれども実はふ2種類のコードがたとえば①Aメジャー→②Dメジャーのように同様のリズムパターンについて反復されてはじめて、①→②の間に〔反復〕という関係が認知されるのである。(では反復感がもとめられるとき、方法論としては、ヒップホップにおけるループの再現のように、一瞬だけパターン末尾の音を途切れさせると反復感が容易に得られることがわかっているが、これはどのような原理によって説明されるだろうか。

5 〔反復〕の条件


音楽において〔反復〕とは何であるか。また〔変化〕とは何か。それは「関係」である。左の譜について見てみよう。⑤の譜ではM(ミュート)記号によって閉じられた2つのパターンが互いに合同の形をなしている。しかし、音楽空間では第1パターンと2パターンについてはその線形性とその不可塑性によって、必ずこの二つのパターンは1→2という順で認識される。したがってここでは〔合同〕というよりも〔反復〕といった関係として認知されるのである。
⑥の例においては1パターン目と2パターン目が合同の関係にある。それらは互いにリズムにおいて合同なのであるから、1→2の関係はリズム上の反復として認知される。この場合にひとまとまりのパターンを決定するのはAメジャーとDメジャーとの間に生じる音程の差である。さらにこの後にA→D→A→Dの進行が続けて行われたとしよう。すると音程の差から生じるパターン感によってこの運動は1→2→3→4という、リズム上4回の反復のたい積として認知されるのである。では音階上ではどのような関係として認知されるのであろうか。
 私達はA→DとD→Aの関係を合同なものととらえるべきか。A→D→Aの時点で(A→D、D→A)①と②の関係を決定することは実はできない。
①A→D→A→D
②A→D→A→E
 A→Dの聴取された直後、「A→D」はひとつの単位を構成する。したがって私達がA→Dの後続するA→Dに対する関係を〔反復〕と説明するにはA→D→AではなくA→D→A→Dまで聴取される必要があるのである。
 ここで一旦確認しておきたいのは、ここで述べられた〔反復〕と〔変形〕の関係は、どちらも2者の関係について基本的には〔反復〕の二つの種類としてとらえられていることである。したがって前者を特に〔同形反復〕、後者を〔変形反復〕と呼ぶことにしよう。
①A→DとA→Dは〔同形反復〕の関係
②A→DとA→Eは〔変形反復〕の関係
 とすれば
  ③A→D→E→C♯m
といった動きはどのように説明されるのであろうか。
 ここにおいては2つの場合に分けねばならない。1つめの場合は、③の動きの前にいまだA→Dを1まとまりのパターンとする動きが認知されていない場合である。この場合において、③はひとまとまりのパターンとして認知されるであろう。しかしそれがひとまとまりとみなされるには③→③´といった[反復]が行わなければみなされることはない。
 2つめ場合、①A→D、②E→C♯mとすると、①と②の関係は[反復]に対して[継続]とよばれる。①の時点においては[反復]の判断がサスペンドされ、②があらわれることで、[継続]とみなされる。

6 ナンバーガール「透明少女」の形式の分析


たとえばそのような観点からナンバーガール NUMBER GIRL の「透明少女」*4の最初のCメロを分析すれば、次の様になる。(譜例:音楽手帖参照)

議論を簡便にするために便宜上、以下のように11のパートに区分して考えることとする。また、楽曲の構成が作曲過程においてもそのような「パート」概念にもとづいて行われることを本論では自明の前提として考えることとする。


‖イントロ|Aメロ|Bメロ|2番Aメロ|2番Bメロ|Cメロ|間奏|#Aメロ|Bメロ|Cメロ|アウトロ‖


Aメロ〔赤いキセツ 到来告げて/今・俺の前にある/軋轢は加速して風景/記憶・妄想に変わる〕
Bメロ〔気づいたら俺はなんとなく夏だった〕
2番Aメロ〔赫い髪の少女は早足の男に手をひかれ/うそっぽく笑った/路上に風が震え〕
2番Bメロ〔彼女は「すずしい」と笑いながら夏だった〕
Cメロ〔透きとおって見えるのだ 狂った街かどきらきら……/気づいたら俺は夏だった風景/街の中へ消えてゆく〕


#Aメロ〔はいから狂いの 少女たちは 桃色作戦で/きらきら光っている 街かどは今日も アツレキまくってる〕
Bメロ〔とにかく オレは 気づいたら 夏だった!!〕
Cメロ〔透きとおって見えるのだ 狂った街かどきらきら……/気づいたら俺は夏だった風景/街の中へ消えてゆく〕


譜例は右ギター(=田渕ひさ子)の演奏を書き起したものである。ここにおいて①はCメロ全体のパターンに対しての規範的なパターンとして説明される。その見方によれば、Cパートは①が4回くりかえされる形式の構造を持つ。つまり②は、①のような規範的なパターンを基にして4小節めに音高の変化が付け加えられたものと説明される。また④のパターンについても同様の説明がなされる。(譜例:音楽手帖参照)

(未完)

*1: 島袋八起「ナンバーガール『透明少女』の形式の分析」、二〇〇七年。*というかこの文章自体に含まれている原稿を再帰的に参照しているww

*2:存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』、新潮社、一九九八年、三七頁。

*3:同書、三五頁。

*4:NUMBER GIRLOMOIDE IN MY HEAD 1 〜BEST&B-SIDES〜” 、東芝EMI、2005