フシギにステキな素早いヤバさ

フシギにステキな素早いヤバさを追いかけて。俺は行くだろう。

映画とロックの美学と替え歌

映画

土曜日は友人のつくった自主制作映画を見に行きました。一緒にバンドをやっていた友人なので、親しいのであります。
このブログでは込み入ったことは書かないつもりなので内容はさておき、画面の背景に映り込んでくる街角のポスターやペイントなど、文字が読めるように配置されたシーンがいくつかあり、僕の知っている彼らしいなと思いました.
ただし、彼の書くマンガやコラージュに比べるとまだまだ複雑さやユーモアが構成されてないなと感じました。初めての映画おつかれさまでした。

ロックの美学

今日はグッドマンの「アログラフィック/オートグラフィック」という芸術の作品形式の区別を参照しながら、「(クラシック?)音楽における作品概念/ロックにおける作品概念」を「音構造(サウンド・ストラクチャー)/それ以外の要素」といった感じで検討していく節を読みました。ちなみに節のタイトルは「オートグラフィックな音楽作品」。
いずみさんが作ってくれたくるみ入りのケーキがおいしかったです。

Happy☆てぃんくる

ささひらさんid:sasahiraの紹介で今日ダウンロードしました。
http://itunes.apple.com/jp/album//id427734326
欲しいときにすぐ手に入るiTunesは便利ですね。
「はっぴはっぴ とびきりの はっぴはっぴ ゆめをみて」
「らっきらっき どきどきで」
「れでぃごれでぃごー いきとうごう」
こういった歌詞がいいですね。歌い方もいいと思うし、また基本的にかけ声があるアニソンは元気になれて好きです。

替え歌

昔作った替え歌はこのようなものでした。
おそらく作品として意識的に書いていたのは、中学のときのオリジナルが早く、作品としての替え歌は高校生のときに書いたものです。
楽曲(権利者の要請により削除)
モチーフは「たなばたさま」です。
原曲の歌詞(権利者の要請により削除)
全体の音の感じをとらえつつ、メロコアっぽさや青春っぽさ、スピード感などを考えながら翻案したのが以下の詞です。
具体的にはベースを弾き、コードを考えながら口当たりのいい歌詞を考えました。Oi! パンクっていうんですか。そういう感じのかけ声もイメージしながらかけ声を足したりしています。
当時はハイスタンダードのコピーなどをしていました。

(さらさら! さらさら!
 さらさら! さらさら!)

以上のくだりは、歌詞の1番に相当するためオリジナルをそのままに使ったつもりだったのですが、「軒端」が「野際」になっていたり、「金銀砂子」が「空から見てる」と足し合わさって「凛々揺れる」になっていたりと思い込みや混同があったようです。歌詞が違うので当然ながら景色が違ってきますよね。「お星様きらきら 空から見てる」ではお星様が主語に置かれ、擬人化され、私たちを見下ろす想像をしているわけで、括弧付きの「幼児っぽさ」の表現となると思いますが、「お星様きらきら 凛々揺れる」という表現では、完全な擬人化は避けられ、むしろ視点は依然として私たちに置かれています。
また、同時に一行目二行目に対して三行目四行目が完全な対句となるため「笹の葉がさらさらゆれる」のが「お星様がきらきらりんりんゆれる」のとイメージとして重ね合わされています。
そしてここで強調されているのが、お星様の輝きよりも、むしろ笹の葉、そしてその背景に光るお星様のきらめきに凛凛したものを見る私たちの詩的なまなざしです。まなざしが「私」が見ることの一点に固定されることで、近代人の形成する「私」「個人」の視点の萌芽が観察されます。


2番は次の通りです。

あなたに かいた
らぶれたー ひらひら
いまでも つのる

おそらく高校生という青春の表象として、1番にて「個」のまなざしの確立を行ったあと、「恋愛」を描いています。
注目したいのは、原曲が「たんざく」「わたしが かいた」で「た」による押韻をおそらくおそらく行っている点です。それをふまえ、主語を同じ「た」の音をもつ「あなた」に置き換えているのがわかります。もちろん機能としても替え歌のために「わたし」を「あなた」という一人称から二人称に置き換えるというのは方法論としてわかりやすいことかと思われます。
この置き換えの結果として、「わたし」と「お星様」という括弧付きの「幼児っぽい」セカイであった詞世界に「わたし」(私)と「あなた」(他者)と「お星様」(超越性)の三者が成立し、より広がりを持ち始めたことがわかります。大事なのは「何を表現したいか」ということに付きますけれど。ここではそういうことが起こっています。
さらに、「た」の押韻が発見されることで、「たんざく」「あなたにかいた」「らぶれたー」というイメージの連想が導かれていることもわかります。
なぜ「らぶれたー」なのかは、「あなたにかいた」という文脈が想像力を準備するのと同時に、「さらさら」「きらきら」という音に「ら」の押韻が見いだされているからだというもいえそうです。


すなわち、

  1. 「あなたにかいた」のは何か?
  2. 後半で「XらXら」と言わなければならない
  3. 「ら」による押韻が発見される
  4. 「らぶれたー」を「あなたにかいた」では?
  5. 「らぶれたー」をかいたら、たぶん恋のようにやぶれて「ひらひら」とんでいくのでは?
  6. だが恋心は今でも募るのだ

このような論理で作詞されたのではないかと考えています。


3番と4番です。

やさしい あなたは
わたしの いのり
(権利者の要請により削除)
ゆうべの おもい


ねがいよ とどけ
(権利者の要請により削除)
りんりん ゆれる
りんりん ゆれる

先ほど述べたように、「あなた」と「わたし」と「おほしさま」の三者が同居しています。ここでは個人的には詩的な「魔法」をかけています。
それは「わたしのいのり」というフレーズです。ここでは内容的にはhttp://note24book.com/okinawatinsagunu.htmlに見られるような、沖縄の民謡の詩にもとづいた親から子への愛情表現を、わたしからあなたの恋愛を少し超えた深みのある愛情表現へとスライドさせるニュアンスのことが表現されています。
すなわち、「ゆるはらす ふにや にぬふぁぶし みあてぃ わんなちぇる うやや わんどぅ みあてぃ」=「夜、海を走る船は北極星を目当てとしている、私の生まれたところの親は私を目当てとしている」といった内容にもとづき、「あなたはわたしの祈りである」というフレーズを意味的には成立させています。


文法によって成立する意味的には「優しいあなたはわたしの祈り」というフレーズはけっこうぎりぎりな線だと思っているのですが、「やさしい」「わたしの」「おほしさま」という「し」の各行第三音に配置された押韻による構成を基盤に、「やさしい」が持つ「しい」の音列や「わたしの」の「しの」の音列が「いのり」ということばの成立を音的に根拠づけ、ある程度の秩序をもたらしているのがわかると思います。このような「意味」の危うい成立を音の反復や対句などの形式という「構造」が支えるさまを、僕は詩的な「魔法」と読んでいます。
意味がいかにも壊れそうな文法構造に、骨組みとして音や形式や連想の構造がしっかりと入っており、支えのおかげでメッセージやイメージが最大限にのびのびと成立しているものをしばしば美的と感じます。
「ゆうべのおもい」に関しては、おそらく同一個所が1番と2番では「りんりん」という2+2拍を強調したような音列や「いまでも」という4拍を1、2、3、4と強調するような歌詞にたいして、長音的な「ゆうべの」という音列を用いることですこし落ち着いてゆるやかな対比を得たかったのではないかと考えます。


4番の歌詞は、締めということで1番の再現をもってこようとしたはずです。しかし、「のぎわにゆれる」からスタートしてあまりにもラブソング的に物語が駆動してしまったため、二行目を書き換えざるを得なかったのかなと思います。2番3番で登場した「わたし」そして「あなた」がことばとしては退場し、「ねがいよ とどけ」という祈りのことばが発話として置かれています。
1番の「のぎわにゆれる」と4番の「ねがいよ とどけ」を対置するとわかるのですが、前者は視点だけがそこに置かれ、「笹の葉が軒端に揺れる」という事態の報告から遡行的にそれを報告する「私」が見いだされる表現なのに対して、後者は「よ」という呼びかけと「とどけ」という命令形の二つの特徴によって話者の存在がことばの中に形式として明示的に埋め込まれているのです。
したがってこの歌詞の1番から4番へのストーリーは「視点」の成立の後にあなたへの「思い」が見いだされ、最後に「念」が成立するという筋になっているのです。なにがいいたいかというと、端にイメージがちらばっているだけではなく「筋を持った」タイプの歌詞ですよということです。


録音における最後のチャイムはアクシデントで入ってしまったものです。パンクなので録り直さず残しましたw。
死に舞さんのロックの美学によると、こういった録音時のアクシデントを痕跡として残そうとするのもロックの美学の特徴のひとつに数えられるようですね。
今はなき『バンドやろうぜ』の広告でのっていたタスカムあたりのクリアピンク色の4トラックカセットMTRで録音をしていました。ボディーにマイクが内蔵されていたので気軽に環境音と楽器音を同時に録れてとても気に入っていましたよ。