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フシギにステキな素早いヤバさ

フシギにステキな素早いヤバさを追いかけて。俺は行くだろう。

雑賀壱と寺山修司と少女革命ウテナと BAD RELIGION

雑賀壱

最近ハマっているもの、それがこれ。雑賀壱さん。
 日刊 サイガイチ
シノハラユウキさんの嫁披露飲み会で知り合ったのですが、非常に面白いスピシフィックを持った方で、ブログを読むにつけ軽やかな想像力と飛躍のある文体に惚れ込んでいます。


僕の好きな日本の小説家といえば、残念ながら時代の流れには抗せず、佐藤友哉西尾維新をツートップとしています。
それに続いて中原昌也
近代文学では芥川龍之介太宰治
これらの作家に共通するのは文体へのこだわりと自意識の拘泥、ある種の露悪的な態度を持つ文章(太宰はどうかわからない)。
純文学のイデオロギーの一端を示しているのかもしれません。


よくわからないけど雑賀さんの文章・文体が好きです。
このはてなブログを書き出したのも、「それでは、世界の終わりが訪れることがなかったならば、再びこの場でお会いしましょう」で毎回締められる「日刊サイガイチ」を読んで、ああいいなぁこういう媒体……


という思いに駆られ始め、「みらくる明るいセカイ」よりもう少し軽やかな媒体が欲しかったなぁ俺は、そういえば、と思わされ始めたからです。
まるで人生という海を生きるための航海日誌のような媒体が欲しくなりました。
ちなみに僕は批評を文学の一ジャンルだと考えています。文学とは生をことばによって記述することでそれをとらえかえし、とらえかえされた記述によって生を生きかえす術なのだと考えています。

寺山修司

寺山修司は、『戦後詩—ユリシーズの不在』(初版は紀伊国屋書店から1965年刊→ちくま文庫版初版1993年)において、詩人北村守の「ラワン」という詩を引いた上で(1)、次のように批判しています(2)。

一年に直径12mも太る
ラワンがある。
それはうそである


ラワンの中に穴をくりぬいて
おれは住んでいる。
それもうそである


(中略)


みんなうそ。
おれは27才独身
本俸二万五千四百七十円
手取り二万一千八百円。

(1)同書50-52頁。

これは新しい詩人北村守の「ラワン」という詩である。読むとなかなか面白いのだが「現実を記号体験へ持ちこむ」ことによって自分の居場所を見失なってしまっている。「一年に直径12mも太るラワンがある」という彼の発見した現実をすぐに「それはうそである」と否定してしまうのでは、まるで「夢の中の病気を、醒めてから現実の医者に診断させる」ようなものである。
現実の時点に立ってみれば「ラワンの中に穴をくりぬいておれは住んでいる」のがうそであるのは当然のことであり、一々念をおすまでもないことである。私はこの詩について「現代詩手帖」という雑誌に「ラワンの中に穴をくりぬいて住んでいることがほんとうで、27才独身本俸二万五千四百七十円ということがうそであるような認識をもつことこそ詩人の義務だ」と書いたことがあるが、それはあくまでも「現実を見ぬふりをしろ」ということではなくて、「より深い現実を見るべきだ」ということだったのだ。
「おれは本俸二万五千四百七十円」などということは形而下的な事実だが、それだけではちっとも真実ではないではないか。

(2)同書52-53頁

ここに僕が寺山修司を詩人として、批評家として、そして劇作家として信頼できる思想があります。彼はことばというものの想像力に及ぼすちからを信頼しているのです。
寺山は(ひょっとしたら彼の創作かも知れないが)その批評を掲載した一ヶ月ほどして一人の女性から批判の手紙をもらったと述べ、その女性の「どんなにつらい現実でも、やっぱり現実こそは現実、(中略)なにを空想しようが、やっぱり彼は二十七才で独身で手取り二万一千八百円です。恐ろしい現実です」という反論に対して再反論をします。

北村守は新聞記者ではないのである。外的な事実を「直視」し、それを私たちに示したところでそれが一体何になるのか。月給手取り二万一千八百円という現実は、生活の中で直視していればよいのであって、文学とはその直視のあとの「変革的行為」として存在しているのである。さらにいえば、詩は給料をあげるために存在しているのではない。

同書54頁。

「空は本それをめくらんためにのみ雲雀もにがき心を通る」と歌い、「どんな鳥も想像力より高くは飛べないだろう」と嘯いた寺山修司の想像力への信念とはけしてカッコつけただけのそぶりではない。それが皮膚を無視するように心へとどいてくるのが上の文章です。生きるということは単に現実を生きるということではないのです。
TVアニメ「少女革命ウテナ」において「世界を革命する力を!」と叫ばれているのも、おそらく、このような意味においてでしょう。

われわれの日常を規制しているのは事実ばかりではない。むしろ事実を生み出している権力家の(あるいは自分自身の)迷妄なのである。そのことへのきびしい認識なしにはほんものの詩などは生まれてはこないのであろう。

同書55頁。

BAD RELIGION

僕の歌詞という想像力への期待を抱かせたのは、第一にビートルズの「Yellow Submarine」や「Nowhereman」でしたが、椎名林檎スピッツや eastern youth を経由し、高校生になってハイスタンダードのようなメロコアを聴くようになって、衝撃を受けたのは BAD RELIGION の歌でした。
代表曲としては、American Jesus (『Recipe For Hate』に収録)などが挙げられるかと思いますが、その衝撃というのは単に詞の内容というだけではありません。

i don't need to be a global citizen
because i'm blessed by nationality
i'm a member of a growing populace
we enforce our popularity

http://www.badreligion.com/albums/7/Recipe_For_Hate

(リンクから歌詞とフルサイズの曲が聴けるのでぜひ飛んでみてください。二回目からは一分程度しかきけなくなるようですが)
語彙の豊富さから生じた、 ai-don-ni-tu-bi-a (一行目)という音の並びや koz-aim-blesd-bai-na-sho-na-li-ti (二行目)という音の並びに新鮮さと価値を感じたのです。
すなわち、

  • ai-don-ni-tu-bi-a (一行目)
  • ai-ma-mem-ba-o-va (三行目)

の母音・子音の比較と対比や、

  • koz-aim-blesd-bai-na-sho-na-li-ti (二行目)
  • wi-in-fors-awa-pa-pu-la-li-ti (四行目)

という音の(特に wi-in-fors-awa のあたり)立て続けの連なりにおいて。
僕が作詞の教科書としての畑亜貴「もってけ!セーラーふく」と大森祥子「Cagayake! GIRLS」 - Togetterで「語彙の拡張」という価値を持ち出しているのも、実は eastern youth に日本語の、 BAD RELIGION に英語の語彙拡張の価値を見いだしてきたからなのです。