フシギにステキな素早いヤバさ

フシギにステキな素早いヤバさを追いかけて。俺は行くだろう。

押韻、正解はひとつ!じゃない!!、ってなんでですかー

歌詞における音韻については、日本語の/音素/というレベルであつかう、と書きました。*1
では、押韻をどう考えるのかを書こうと思います。

押韻の定義

歌詞における押韻を、原則的には「日本語の音素が一致すること」と定義します。加えて、文法(とくに品詞)的な見方も必要に応じて取り入れます。
具体的な例を以下に挙げます。

分析

TVアニメ 探偵オペラミルキィホームズからOP曲「正解はひとつ!じゃない!!」*2の1番サビを引用します。

おはようおはよう そこにいるの?
眩しい眩しい 夢があるの?
冒険が挑戦を連れてきた


(作詞:畑亜貴

http://www.kasi-time.com/item-50511.html

まず、1行め「おはよう おはよう そこにいるの?」というフレーズに注目しましょう。「おはよう:おはよう」と完全に一致したくりかえしが見つかりますが、この場合は「押韻」とは呼ばずに「反復」と呼ぶことにしています。それ以外を見ると、ここでは部分的に音素が重複しているところはありません。したがって、押韻は指摘できません。
次に、2行め「まぶしい まぶしい ゆめがあるの?」。「まぶしい:まぶしい」という反復がありますが、ここにもその他で音素が重複しているところはありません。
そして、3行め「ぼうけんが ちょうせんを つれてきた」。「ぼウけンが:ちょウせンを」のように、「ウ」の音素と「ン」の音素の重複が発見できます。このとき、押韻が行われていると呼ぶことにしましょう。

くりかえしとしての反復とくりかえしとしての押韻

僕の考え方においては、方法論的な意図から、「歌詞はくりかえし構成を基本にもっている」という原則が置かれています。
この原則は歌詞を見るときの、

  • 歌詞においてくりかえしを発見したい
  • くりかえしのバリエーション(変奏)について考えたい
  • くりかえしからの逸脱を発見したい

という動機から生まれています。

つまり、作詞において、作詞者たちが、素朴なくりかえしからどのように方法論的に脱却しようとしているか、という視点を持って僕は歌詞を見たいのです。付けくわえると、素朴なくりかえしからどのように魅力的に脱却しようとしているか、それが見たい。


このように考えるとき、押韻はくりかえし構成の下位要素であると考えます。

  • 歌詞におけるくりかえし構成を見る
    • あるフレーズのくりかえしを反復と定義する
    • ある音韻が重複しているとき、それを押韻と定義する。押韻はくりかえし構成の始点あるいは中間点あるいは終点のマークと仮構し、観察されるための点である


くりかえし構成の仮構云々は唐突に出てきましたが、今後書いていくことになると思いますので、しばし置いといてください。

このように考える意義

さて、ここまでの定義で注目すべきところはどこなのかを少し説明します。


ひとつは、押韻を、独立した一個の技法とは見ないという点です。

  • 現代の実作者たちにおける一般的な認識や、
  • 押韻が成立し利用されてきた歴史的な経緯、
  • そして僕自身がどのように歌詞における押韻を聞き、書いているか、

それらをさておいて、押韻を、くりかえすという技法の下位要素として見ること。
ここが注目すべき点です。なぜなら、僕がなんども述べているのは、「日本語による作詞法を西洋音楽における作曲法の比喩としてとらえたい」という自分のスタンスであり、このスタンスから方法論的に導かれているのが「くりかえし構成は音楽の基本的な構造である」という見方だからです。
僕はこのような狙いから、音韻を音素によると定義し、押韻をくりかえし構成の下位要素であると定義しています。


ふたつめは、押韻を、くりかえし構成を仮構するための点として扱おうとしている点です。(←自分でもこの表現の意味不明さを自覚してるので許してください……)
まず、「仮構」の意味は「無いことをかりにあるとすること。また、そうして組み立てた事柄」と大辞林第二版には書かれています。
つまり僕は押韻を通して、そこに本当にあるのかないのかはわからないくりかえしの構造を見つけようとしているというのです。また、これは方法論ですから、説得的な根拠はありません。根拠はなくても立脚点はあり、それが西洋音楽の作曲理論というわけです。しかし僕は、一見すると作詞の論理がなさそうなさまざまな歌詞を分析するためのひとつの足がかりとして有効であると考えています。