フシギにステキな素早いヤバさ

フシギにステキな素早いヤバさを追いかけて。俺は行くだろう。

"The Cultural Study of Music"

大学生の時に渡辺裕先生だったかの原典購読でやった本の日本語訳が出てたらしい。
死に舞さんがたしかそこにはいて、「ナティエを引用する必要あるの?」と言われた覚えがある。
たしかにw

あの頃はあまり知的に磨かれてはいなかったし、今もそう。
でもまあ楽しかったよ。美学は。

その頃の発表用レジュメです。

該当箇所は"The Cultural Study of Music"の"Subjectivity Rampant! Music, Hermeneutics, and History" by Lawrence Kramer
邦語訳では「主観礼賛!音楽・解釈学・歴史」

音楽の感受における《メタ言語》の通時性


木曜2限 美学演習  島袋八起

本論文の要約

クレイマーの全体における指摘は次のようである。
音楽に関する記述は、すべてそれ自身の発生した社会基盤にその特性を支配される。その特性は主観性と呼び習わされ、二十世紀の音楽美学においてはその混入を回避する努力が要求された。が、そこで主観性と呼ばれるものはそもそも歴史的かつ社会的に構築されるものであり、したがって音楽に関する記述においては、記述の内部の仕組みにそれが組み込まれることによって音楽の意味が生み出されるのである。しかし私達は社会的な特質から起こるその主観性について悲観する必要はない。なぜなら私たちの記述が負うているのは結局のところ音楽を生き生きと経験したことによる感動なのであり、かつその生き生きとした経験は、そもそも社会的で文化的な基盤がなくしては私たちに起こりえないからである。
クレイマーはしたがって本論文において、私たちは音楽の主観的記述を社会的かつ文化的基盤から発するものとして肯定的に捉えるべきであり、ある特定の記述はすべて特定の文化基盤の内部で妥当性を判断されるべきと主張するのである。

「偏見の構造」と分析手法との関係

クレイマーのシューマンに関する考察は本論文において二つの役割を持っている。ひとつは上述のように、主観性を否定する音楽美学に対して反駁を行うことである。もうひとつは有効な議論の例をしめしてみせることであり、ここにおいて彼は、主観性の妥当なありかたとして見出される条件が「偏見の構造が記述の中にしめされていること」であり、妥当でないものがそれを含んでいないことを指摘している。
シューマン、ユネカーのいずれについても、「私的にかくされたアイデンティティと公的なふるまいとの引き裂かれ」という、当時の社会一般にみられた偏見の構造がその記述の内部に読み取られるのであり、私たちはその偏見の構造を参照することによってかれらの記述に価値を見出すことができる。一方では「作曲者はハンマーで何度も何度も自分自身の頭を殴りつけるのだ」というビューローの記述が馬鹿馬鹿しいとみなされるのは、この記述には意味を生み出すための手がかりとなるべき当時の偏見の構造が組み込まれてないためである。
クレイマーの言うところの、意味を生み出すために必要な偏見の構造とは、そのような事例によって示されるのである。

意味論的な問題は、音楽を実際の言葉として解読しようとする努力によってではなくむしろ音楽的技術とコミュニケーション的な行動における主要な流れとの相互作用を記述しようとする努力によって解決された。音楽の解釈学において要求されるのは、音楽が時代状況の影響力のいくらかをいかに書き写すかということを示すことであり、音楽を聞くという経験がそれによっていかに支配されているか(あるいはされてきたか)ということを示すことなのである。(本文p.126)

シューマンの発言の前提となっているのは次のような考えである。本当の(あるいは本来の)人格が偽物の(あるいは借り物の)人格に欺かれている。すなわちサマリア人としてのショパンがドイツを経由してイタリアに傾いて行くショパンに欺かれている。どれほど美しかろうとも、従属的な人格は偽物に過ぎない。そしてシューマンの強調するところによれば、楽章の終わりにおいて従属的なその人格は本当の人格に追い抜かれるのである。(同p.131)

そこには典型的な考え、すなわち、ブルジョワは私的で内なるアイデンティティと公的なふるまいとの両方に引き裂かれているという考えがある。シューマンによれば、ショパンのサマリア人としての人格は、彼が正統なアイデンティティとしてふさわしいと考えるところの、社会への抵抗者的な属性の範列としてみなされるのである。(同p.132)

記号学的三分法

ジャン=ジャック・ナティエは『音楽記号学*1 のなかで、記号学的に音楽分析の問題を分類するための方法としてジャン・モリノの「記号学的三分法」を取り上げ、これを徹底的に用いている。そこでは創出過程、感受過程、物質的実在としての作品の三つが、分析における象徴形式の三つの側面としてとらえられる。
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たとえば上の図版は創出面と感受面とが通時的に関係付けられて説明された例である*2。ここでは「ヴェーベルンの創出活動」と「バッハとルネサンスの作曲家たちに対するヴェーベルンの聴き方」の関係、「ブーレーズ」と「ヴェーベルンヴェーベルンのバッハ解釈」の関係などが示されている。

記号学三分法によって説明すれば、クレイマーの論においては、音楽に対する《メタ言語》としての言説が分析の対象とされている。したがって一次現象としてはショパンの作品の感受面がシューマンの《メタ言語》によって創出され、二次現象としてはシューマンのその《メタ言語》の感受面がクレイマーによって創出されていると説明される。
図式的にクレイマーの音楽分析手法をあらわすと次のようになる。
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したがってクレイマーの主張はいいかえれば以下のようになる。
「音楽の意味は実は音楽現象について副次的に生じる《メタ言語》によって生み出される。シューマンの言説について見るなら、ショパンの作品そのものについての感受面がシューマンによって創出されているように私たちは考えがちである。けれども音楽言説のメタ言語性を考えるなら、《メタ言語》間の感受、創出面の関係についても目を配るべきである。実際、シューマンのショパン解釈には同時代の音楽言説あるいは他ジャンルの言説が入り込んでいる。この関係をprejudgmentとクレイマーは呼び、私たちの音楽理解においてもこの《メタ言語》レベルでは、通時的な、したがって歴史的・文化的な相関関係によって私たち自身の《メタ言語》を創出することが支えられているため、私たちは音楽の感受面を創出することができる。すなわちこれが音楽が意味を生み出すしくみなのである」

(1)《創出面》。意味を伝えようとする「意思」がまったくないような場合でも象徴形式は「創造過程」あるいは《技法規則》によって生み出されている。そして、その過程を記述し再構成することは可能である。
(2)《感受面》。ある象徴形式に受信者は単数もしくは複数の意味を与えることになる。しかしそう考えると、《受信者》という言葉はもはや適切ではなくなる。なぜなら、前述のように意味が判らなければ、メッセージのもつ意味そのものが《受信》されず、またメッセージそのものが意味を成さなくなるからである。むしろ、意味は《能動的な知覚過程》によって《構成》されているのである。
(3)《中立レベル》。これは《痕跡》と同じ概念である。象徴形式は五感で捉えられる《痕跡》という意味において物理的・物質的な形態をもつものである。ここで《痕跡》と言っているのはそこから創造過程そのものが直に読み取れるわけではないからであり、またその感受過程も(その一部が「痕跡」によって規定されている以上)多くの場合個々の感受者ごとにまちまちであるからである*3

音楽的分析というものはつねに「語られた言説discours」または「書かれた言説」のいずれかの形を取る。だから、それは人間の行為産物であり、また何らかの痕跡を残すために読解・解釈・批判の対象ともなるものである。しかし、音楽分析があらゆる象徴形式とまったく同じように三つの面(創出面・中立面・感受面)をもつとしても、音楽分析の言説は他の対象すなわち「分析される当の音楽的な事実」がなければ成り立たない。言い換えるなら、それは《メタ言語》にほかならないのである*4

*1:足立美比古訳(1996年、春秋社)

*2:同書、第六章、185頁の図版

*3:同書、第一章、p.11-18の引用者による要約

*4:同書、第六章、p.166