フシギにステキな素早いヤバさ

フシギにステキな素早いヤバさを追いかけて。俺は行くだろう。

2011年9月4日発行『ボカロクリティーク』Vol.01の紹介です

9月4日(日曜日)ボーマスにて頒布されるボカロクリティークの紹介を書きます。
なお詳細は、
こちら(ボーマス17 ボカロ批評本『VOCALO CRITIQUE』執筆陣決定! - よた▽ろぐ)と
こちら(ボカロ批評同人誌 VOCALO CRITIQUE / 白色手帖
などです。


このエントリーでは、中村屋さんから送られてくるゲラと完成原稿を読んだなかで、僕が感動したこと、感激したことを率直に書きたいと思います。
一気に書き下ろそうと思ったのですが無理でした(i_i)
ですから何回かに分けて書きます。

パッケージ

表紙:鷹緒さん

指に小鳥のとまった眼鏡をかけた初音ミクさん。濃淡と彩度にリズム感のある色の置き方と重ね方の「塗り」。濃色になったときに浮き出してくる少しノイジーな「質感」。そして塗りと同じく、リズム感を感じさせる太細にグラデーションのある「線」のていねいさと色気に、見とれてしまいます。
(上に挙げた公式サイトでプレビューすることができます!)

はじめに:中村屋さん

本誌の編集長がボカロクリティーク成立の経緯を描くことで、ボカロクリティーク創刊にかけた「思い」が語られたテキストです。すべての原稿があがった後に中村屋さんから見せてもらったとき、「書いてくれたんだ!」と僕は感激しました。「思い」。これなしにボカロクリティークは完成しなかっただろうと思います。

目次:

ボーカロイド風のタイポグラフィーで00から13まで、各文章のタイトル横にナンバリングされていてかっこいいです。このアイディアは小さいことですが、デザインとして直感的ですばらしいと思い、感激しました。

コンテンツ

01:AHS尾形社長さん

猫村いろは」開発にかけた尾形さんの思いが書かれているところが僕には特に面白かったです。というのは、Twitter上で親しくさせていただいている「死に舞」さんや「ja_bra_af_cu」さんと、しばしば「声とは人間において/人間にとって何なのか?」ということについて話をすることがあったからです。本文の一カ所で引かれている「包丁で人を刺したら包丁に責任はあるのか?」という話題が出てくるところなどに、自分が普段考えている「声」についての哲学へのひとつのヒントを感じとり、尾形さんの考えていることがもっと知りたい!と思いました。

02:デスおはぎさん

UTAU文化に属するひとりのプロデューサーから見た「偏見」、つまり「ボーカロイド」界隈に対して「UTAU」のプロデューサーはどう考え、どうアプローチすべきだろうかという問題意識が、個人の立場でという視点から語られています。俯瞰する視点ではないだけにばっさりと問題がいくつかに切られているというわけではなく、むしろクリエイターとしてまさに直面している問題を内側から描いている様子に共感を覚えました。個人的には、僕が新宿や下北沢や高円寺でバンドのライブ活動をしていたころ、「ロック/ポップ」はどう思想的に切り分けるべきか、音楽の技術としてどう実践するべきか、ファッション(ステージ衣装は着ないというファッション)やMCのスタイル(しゃべらない。詩や演説を朗読するというスタイル)としてどうプレゼンテーションすべきかといったことを考えていた気持ちが思い出されます。

03:清水りょういちさん

出版社におけるボカロ理解の内情から始まるのですが、そこにまず引きつけられました。そして現在のメジャーレコード会社がボカロPデビューへ介入するときのやりかたへの批判は、本文中に出てくる「ボカロ曲の隆盛は、そのファン共々、既存J-POPシーンへの批判でできあがったものだ」という指摘からかえって伝わってくる、現在までのJ-POPの価値を認める思いからなっているのだろうなと感じました。J-POPとボカロ曲をないまぜに見てしまうことは、これまでJ-POPが果たしてきた役割と、現在ボカロ曲が果たしている役割とをメジャーレコード会社が見過ごしてしまうことに他ならない。批判の上で、ボカロ曲の価値はJ-POPとは違うところ、別にあるんだという主張がされているところに、これまでゲッカヨの編集長として音楽にかけてきた思いがくっきりと伝わってくるように思いました。


楽しみにしていただけるとうれしいです。