フシギにステキな素早いヤバさ

フシギにステキな素早いヤバさを追いかけて。俺は行くだろう。

『ぴちぴちピッチ』の劇中歌

――できるだけ遠くに向けて(東浩紀『郵便的不安たちβ』、96ページ)


いずみのさんのエントリー泣ける『ぴちぴちピッチ』のボーカルソングTOP6 - ピアノ・ファイアを拝読した。
そのアニメのタイトルを聞いたのは初めてだったけど、僕はいずみのさんのブログに貼られている動画たちを見て、曲調に1990年代から2000年代前半のテイストを懐かしさとして受けとり、せっかくなので何か反応してみたいと思った。

ほかのことをする作業中に延々と「Legend of Mermaid」などをループ再生しながら耳で考えた。それからマクドナルドなどでクーラーにあたりながらノートに歌詞を書いて考えた。(歌詞について考えるとき、鍵というのは膨大にある。ただ歌詞だけを見つめ、歌を聴いているとすべてが鍵となって見える。だが語るべきことを限定するのなら、自分のアンテナにかかった小さな感動に着目する必要がある。中学生や高校生や大人たちがざわついている場所で、くりかえし聞いているとアンテナに集う印象たちはしだいに輪郭を明瞭にしてくる。そしたらそれを捕まえる。

ブログのエントリーとしては「歌そのものについて」自分が感じたこと、考えることを書いてもあまり面白くないかと思ったので、いずみのさんのエントリーを読んで自分が面白いと感じたところから書き出してみたいと思った。それは僕が自分のための問題として持っていることについて書くことに他ならない。

初めての印象

最初にいずみのさんのエントリーを見たとき、引用された歌詞で目を惹かれたのは、
「7つの国のメロディア
というフレーズだ。字面をみて、この歌詞は音にしたときに面白いフレーズに聞こえそうだという直感がした。こういう直感をさせる歌詞には十分に興味を引かれてしまう。それを実際に聴いてみたいと思わされた。

くりかえすことに注目する

いずみのさんのエントリーで面白い指摘と思われたのは「サビのメロディーのくどいリフレイン」ということばだ。このエントリーを書こうと思ったのもその指摘について考えるところがあったからだ。それは何か。
僕には、「Legend of Mermaid」や「Super Love Songs!」を聞いてみて、そこにあるリフレインがとりたてて「くどい」くりかえしには思えなかった。むしろ、歌としては常識的な例だと思う。
だが、いずみのさんは「くどい」「執拗な」という形容詞をつかってそのくりかえしのしつこさを表現している。それはけして誇張ではないだろう。だとすれば、いずみのさんはそこに何を感じて、「しつこい」ということばが出てきたのか。それについて考えるのは自分にとって面白いことだと思ったのだ。

一般的に「リフレイン」ということばは、詩や歌にでてくる形式的なくりかえしのことをさす。韻文や音楽においては、くりえしは基本的で重要な技法である。
作曲法でもまた、くりかえしを単位としながら、くりかえしの中で必然的にうまれてくる「飽き」を避けるために微妙に、ときには大胆に変形や変化を与える技術が基本的に重要となる。僕がよく注目している歌詞の押韻分析というのも、このくりかえしに注目することで、作詞法を「作曲法のアナロジー」という視点から形式化できないかという立場から方法論的にこころみていることだ。そして西洋の作曲法はくりかえしに注目し、くりかえしを反復したり変形しようとする。

さて、いずみのさんのエントリーでは「何が」くりかえされているのかということについて、「Legend of Mermaid」のサビの歌詞が引かれて、次のように述べられている。

七つの海の楽園 嵐の夜の後には 愛を伝えるため 命がまた生まれる
七つの国のメロディア 誰もがいつかはここを 旅立つ日が来ても 私は忘れない

……一行目のメロディと、二行目のメロディが全く同じな上に、「な・な・つ・の・う・み・の・らーく・え・んー」というように一音一音をはっきり区切って(しかも、たどたどしく)唄うので、よけいにリフレイン感が印象に残るのだと思います。

泣ける『ぴちぴちピッチ』のボーカルソングTOP6 - ピアノ・ファイア

確かに「命がまた生まれる」と「私は忘れない」の対比を除いてはメロディーはほぼ同じだ。だから「全く同じ」と表現してもいいかもしれない。だがくりかえしの回数はせいぜい2回である。
また、一行目のa「七つの海の楽園」、a'「嵐の夜の後には」と二行目のa「七つの国のメロディア」、a'「誰もがいつかはここを」では、リズムが同じなのだがメロディーはそれぞれa-a'で対比があり、「全く」と表現していいのかは微妙なところだ。だからこの点に注目するなら、繰りかえしは2回ないし最大4回ていどに感じられるのかもしれない。

ここで僕が言いたいのは、音楽におけるくりかえしで「しつこい」と感じられはじめる単位は、3回や4回からではなく、2回からなのだということだ。
(このことについては僕は以前から問題として考えていた。最近知り合った、Anansiレーベルの主宰である「うっちぇり」さんが、最近「音楽において2回以上のくりかえしは飽きを生むから、変化をさせなければならないと先生に習った」というような発言をFacebookかなにかでしていた。その発言を見て、僕は強い同意の気持ちを持った。それはたんに西洋の音楽理論的な感性なのかもしれないが。)

作曲法と「くりかえし」と反復と変形と歌詞の解釈

西洋の作曲法はくりかえしに注目する。西洋の作曲法が身に付いているひとたちが作詞をするときもまた、くりかえしに注目しそれを反復し変形するという思考をするのではないか。あるいは、作詞のときに意識的にそれはしなくても、ひとの歌詞を聴き取るときにそのように聞くリテラシーが耳にそなわるのではないか。
(あるいは、そのような聞き取りの方法を共有することで「おはなし」がしやすくなるのではないか。)これが音のくりかえし(つまり押韻)に注目して歌詞の分析をする僕の方法論的な立場である。文学的な「押韻」という創作技法を、こころみに、西洋音楽理論へとひきつけて歌詞解釈の一方法として位置づけたいというねらいだ。
そのへんの第一の整理はhttp://critique.fumikarecords.com/fumikahihyou_001.htmlの「押韻の形式」という箇所でしているので興味あれば読んでいただけるとうれしい。

ハレ晴レユカイ

TVアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」のED曲「ハレ晴レユカイ」はタイトルに「ハレ」という音が2回くりかえされている。さらに、歌詞の冒頭は、

(1番Aメロ)
ナゾナゾみたいに 地球儀をときあかしたら みんなでどこまでも行けるね

http://www.kasi-time.com/item-782.html

のように、「ナゾ」という音が2回くりかえされている。ここには、畑亜貴さんが作詞の形式としてもつ「押韻」のシステムが予告されている。つまり、冒頭以降では歌詞の意味が、「物語」あるいは「メッセージ」より先に「押韻」にドライブされる可能性がある、ということがここで示唆されている。

「Legend of Mermaid」

では「Legend of Mermaid」はどうか。

(Legend of Mermaid 1番Aメロ)
なないろの かぜに ふかれて とおい みさきを めざしてた
よあけまで きこえた めろでぃー それは とても なつかしい うた

「ナ」の音が歌の冒頭で2回くりかえされている。そしてサビにもう一度あらわれるのが、

(同 1番サビ)
ななつの うみの らくえん あらしの よるの あとには
 あいを つたえるため いのちが また うまれる
ななつの くにの めろでぃあ だれもが いつかは ここを
 たびだつ ひがきても わたしは わすれない

という「ナ」の音の2回くりかえしの2セットだ。
「ナナ」の音が歌詞の冒頭で予告され、つづいてサビで反復されている。

つづく

つづきは、このブログかTwitterか未来のどこかの時点でやるかもしれません。