2011年9月4日発行『ボカロクリティーク』Vol.01の紹介です。(その3)
ボカロクリティークの紹介を書きます。
ミクさんお誕生日おめでとう。
あわててdrawrでかきました。
あと2回ぐらいかかりそうです。
前回の続きです。
07:ISD@G.C.M(アンメルツP)さん
ボーカロイドのキャラクター性とデュエットにおける表現を整理する試みです。「ボカロ音楽はこのように楽しむのか」ということを、ボカロ音楽をしらない人たちにも理解させることのできる解説文として、また、「声」について整理し語るときにはこんなやりかたがひとつあるのか、といういい例になるのではないでしょうか。たとえば次のような指摘。
リンは単体では、ミクよりも若干作り手との距離が近いところにいるのが特徴だが、デュエットということになると、ミクの存在に引っ張られて、リンも「電子の歌姫」や「アイドル」的なポジションに聞こえてくるのはなかなか面白い。
また、初音ミクとGUMIとの組み合わせでは、ハチさんの「マトリョシカ」、40mPさんの「フタリボシ」を引きながら次のように述べています。
楽曲の中でのキャラクター性は薄く、どちらかといえばPの意志が忠実に反映される歌い手2名の起用、という傾向がある。
「声」と「キャラクター性」の問題整理は、前回の『ボカロクリティーク』Vol.0(2011年6月発行)でもja_bra_af_cuさんが試みようとしていましたが、それはボカロについて考え語るときのひとつの観点であり、音楽における歌の存在論を考えるうえでも非常に魅力的な話題です。だけど、その整理をやるのはまた怖い。だからアンメルツPさんの整理はその問題を考え語るときのひとつのサンプルとして強い価値を持つと思います。声の特質とキャラクターへの想像力を記述的に整理しているところが僕には魅力的に感じられるのです。
08:imgd@パッチワークPさん
僕がこの文章を気に入っているのは、いたく的確な表現が多いように思うからです。
実は、自分が初めて「批評」という行為って面白いな、とその文学ジャンルを意識しはじめたのは寺山修司という俳人・歌人・詩人・劇作家の文章を読んだときです。寺山はサザエさんの夫婦関係に性的な関係を読みこもうとすることで、サブカルチャーとしてのマンガに埋めこまれた日本の社会規範の批判をしてみせました。また、近代の短歌をかたちづくった石川啄木の「妻」への視線、「走れメロス」に描かれる「独善」をあばきだすといったことを「あえて面白く滑稽な」視点をとっているとみせかけ(じっさいにそうなのですが)、しかし説得的な指摘を導きだしています。オフビートな感覚で語りながら真実のようなものを刺し貫くということは批評の理想的なかたちのひとつだと僕は信じています。なにしろ、パッチワークPさんは次のように語ってしまうのです。
1 メロディは麺である
ラーメンをラーメンたらしめているのは、麺の存在ゆえです。麺さえあれば、どんなひどいレシピでも堂々とラーメンを名乗ることができます。逆に、麺が無ければ、ただの中華スープだったりツマミの類にしかなりません。(…)楽曲においては、(…)それを抜いてしまうと楽曲が成立しなくなる主旋律、これがすなわちメロディです。
これを読むとぐっと来て思い出すのが、僕が大学生のとき卒論で取り上げた、太宰治の「如是我聞」という長文のエッセイ(というか批判文)です。
文学に於て、もっとも大事なものは、「心づくし」というものである。「心づくし」といっても君たちにはわからないかも知れぬ。しかし、「親切」といってしまえば、身もふたも無い。心趣(こころばえ)。心意気。心遣い。そう言っても、まだぴったりしない。(…)料理の本当のうれしさは、多量少量にあるのでは勿論なく、また、うまい、まずいにあるものでさえ無いのである。料理人の「心づくし」それが、うれしいのである。
「如是我聞」 二
「美味しいラーメンを探して毎日のように食い歩きをして」考えられた、作詞、作曲についてのパッチワークPさんの思考が開示されていることそのものが魅力的な文章だと思います。