フシギにステキな素早いヤバさ

フシギにステキな素早いヤバさを追いかけて。俺は行くだろう。

2011年9月4日発行『ボカロクリティーク』Vol.01の紹介です。(その4)

前回(2011年9月4日発行『ボカロクリティーク』Vol.01の紹介です。(その3) - みらくる明るいセカイ)のつづきです。もうすこしつづきます。


本誌は、物理的にはこんなことになっているみたいです。どきどき。


09:いっしーさん

本文で、けして直接に「そのこと」が論じられることはないのですが、しかし僕の言語触角にピンときた表現は、「幸せ」について触れられた次の箇所です。ここでいっしーさんは軽妙で饒舌な書きぶりで語るものの、ここにぽろっと出てくる悩みの例がするどく問題を突いているように見えます。

(…)「ハイ個人主義です。学校出たらあとは全部自由行動!となった今、実は自由こそが大変だってことに人々は気づき、または、気づかぬままストレスを感じている。(…)幸せとはなにかの設定からして自分で決めなきゃいけない。そうして迷う人が続出しているのが現代日本だと思う。

「幸せとはなにか」という問題について考えるうえで、共通の思考のフレームワークあるいは共有される経験のプラットフォームとして、「初音ミク」が機能しているならば、それは宗教と見なしうるのではないだろうか。と、僕の考えではおそらく、いっしーさんの論はそのような問題意識からつむがれています(あくまでも僕の思考をオーバードライブさせた理解によるとですが。外れてはいないはず)。
初音ミクという媒体は、歌によって個人の思想や思考、経験を伝達します。それは歌や視覚的なデザインという「表現」であるがゆえに、人に「感動」(広い意味での、です)を与えます。「感動」は制作者のはかりによる一次的な価値判断を通過して、そこに「発表」されています。だから、わたしたちは「感動」を経由して「価値観」というものを推し量ることができます(そこにただしく知ろうとする善意があれば)。歌をつくることも、歌を歌わせることも、絵を描き動画を編集することも、それを聞き見て、それについて感じ考え語ることもすべて、そこに生きている人の「幸せとはなにか」と考えることが反映される場です。そこでは、たんに美学や理論が働かされているだけではなく、「幸せとはなにか(あるいは不幸せとはなにか)」という問題意識が一緒に働かされているでしょう。前近代から人は孤独であったに違いない。それでも、「自分が何に価値をおくか」ということを、そのプラットフォームを通して表現することで「人にとっての幸せとはなにか」という普遍的な問題へとみんな「で」接近していけるような枠組みが「初音ミク」といううれしい贈り物なのではないでしょうか。