読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

フシギにステキな素早いヤバさ

フシギにステキな素早いヤバさを追いかけて。俺は行くだろう。

2011年9月4日発行『ボカロクリティーク』Vol.01の紹介です。(その6)

つづきです。これでおしまい。

11:東葉ねむさん

精神分析理論を用いて、人がボカロ楽曲を聞くときの快・不快を4つの象限に分類することによる「ボカロの声」への考察です。ねむさんの分類によれば、その象限は、「歌われる歌詞をことばとして聴き取れる」という評価点と「歌われるメロディを快いものとして感じる」という評価点から得られます。これは声について大きく考える枠組みとして面白いフレームだと思います。
ここで我が身を振りかえって考えてみるに、僕にとってボカロの歌詞は、生身の人間が歌うのと同程度に「ときに聴き取れたり、ときに聴き取れなかったり(聞き違いを起こしたり)」するサウンドです。つまり僕には歌詞の聞き取りの問題は「聴き取れる/聴き取れない」という二項対立的よりも、聴き取れる頻度の問題として現れています。サウンドのみで聴き取れる頻度は一曲の歌詞の60%から70%ぐらいであり、歌詞をテキストとして補ったあとでそのサウンドを正確なことばとして聴き取れる精度が90%ぐらいになります。
メロディラインについては、圧倒的にボカロの方に、再現度の高さを認められるのですが、メロディを実現するにあたって本質的に発生してしまう「音程が上行/下行するときの速度」や「音が発されるときの強さ/弱さ」「音質の変化」といったアーティキュレーションについては訓練された生身の人間の方に「手持ちのバリエーションの豊富さ」による再現度の高さが認められるように思います。後者に注目するとき、「ボカロ的なアーティキュレーションが快」「生身の人間の中で、このボーカルのアーティキュレーションが快」「生身の人間で、このボーカルのアーティキュレーションが不快」のように、いわばそのボーカロイド/アーティストの習得し管理しているアーティキュレーションのライブラリへの快/不快といった区分けが成立するのではないかなと考えています。

12:島袋八起さん(つまり僕です)

kihirohitoPさんの『好きよ留学生』という歌に触発されたため、鏡音リンちゃんが主人公に仕立てられた小説です。広島県に設定された舞台で、全体に嫌みと難解さがない、爽やかでとりとめのない感覚に満たされた描写がつづきます。
末尾には小論が付属しています。『好きよ留学生』の歌詞における「い」の音に注目した「批評の入り口」です。ちなみに歌詞には「はいいろ」「らいふに」「りょうかいなんて」「つうじないから」というふうに「い」の音が出現しています。

13:山本ニューさん

これはもうなんていうか…「面白いです! 読んでください!」としかいいようのない、すばらしい出来ばえの叙事詩風味の小説といえばよいでしょうか…
範疇としてはとにかく散文的な文学のひとつに入ると思います。僕はこれがすごく好きです。つまり、エンターテイメントとして非常に面白く成立した文章なのです。