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フシギにステキな素早いヤバさ

フシギにステキな素早いヤバさを追いかけて。俺は行くだろう。

歌詞論の端緒

11月の文学フリマも控えているので、自分の考えていることを整理してみたい。


前回のエントリーを書いたあとに、あらためて自分の考えを頭の中で区分けしてたりしたからだ。その頭の中のものは、ja_bra_af_cuさんのトラックバックエントリーによってプッシュされるかたちで書き始める動機付けが得られた。

漫画をめくる冒険

歌詞論をやりたいと考える端緒となったのは、泉信行(=いずみの)さんの『漫画をめくる冒険』(上下巻)だ。2009年頃、右も左もわからないまま、初めて文学フリマに買い物にいった。そのとき委託で売られていたのを見て、「上下で2600円…高い」と思ったが、漫画の表現論としてこれだけ熱い本はないだろうと感じたので購入した(実は売り子さんに、上下で買うからやすくしてくれないかと交渉したが、委託なのでと断られた)。帰宅して読みふけり、これが高いどころか1冊で2000円以上の価値がある本だということがわかった。
本書の内容に衝撃を受けた。僕はまさにこんな漫画論が読みたかった。それと同じぐらい、このような論が同人誌として頒布されているということに衝撃を受けた。「こんな本を書いてもいいんだ!」という驚き。つまり僕はそれがふだん胸やノートにしまっておくべきことがらだと思ったのだ。だがそれが個人の胸にしまわれず、書かれ頒布されたおかげで、漫画論に渇望していたこの僕のニーズを衝撃的に満たしたこと。
それから僕は、自分が歌について考えていることを、この日本のどこかにいるひとりかふたりぐらいの人物に衝撃的に触れてもらうために、いつか一冊の本を書いてみたいと考えるようになった(『漫画をめくる冒険』からもらった感激・衝撃を誰かにペイ・フォワードしたいという感覚である)。僕は漫画について語ることはできないけれど、歌については、昔からノートに書き留められていることが大量にあった。だから。
では、泉信行さんの論は何が衝撃的だったのか?

媒体の性質と論理

漫画を書き、漫画を読む者にとって感覚的に理解されていると思われる「画面は等質ではない」ということを思い起こそう。つまり、演劇の舞台で上手下手があり、それが入りハケ、順行逆行と対応しているように、漫画のある1コマにおける画面も左右に意味上の区別があり等質ではない。具体的には、右手から左手に向かって人物の体が壁へ叩きつけられる絵と、左手から右手に向かう絵とでは、ふつう意味が異なる。
このような漫画の画面の性質は、経験にもとづいて漫画の技法書などに創作の技術として報告される。ここにはおそらく次のような図式があるだろう。

  • 書き手読み手によって経験的に共有された感覚についての知識がある→その知識にしたがって書き手が漫画をかく(創作論の水準)→その知識にしたがって読み手が漫画を解釈する(表現論?の水準)

この図式によって与えられる不安は、「では、私の読みは書き手の意図をただしく解釈しているものだろうか?」という不安である。あるいはその逆「私の書き方は、私の意図をただしく理解してもらえる書き方になっているだろうか?」という不安である。
漫画をめくる冒険』は、漫画が「本」という物理的媒体に記録されることに注目し、そこから導きだされる性質に、漫画における画面の不等質の論理を見いだす。漫画の紙面はつねに正面から垂直に眺められるわけでなく、斜めに差し込むような視線によって眺められるということ。漫画のコマが右から左へと移るために、視線もまた傾いていくということ。この事実から、

(同書10ページ)
右手前に立っているキャラクターは読者の視線と向きが似ているため、なんとなく「読者に近い存在」のように感じられますし、奥にある壁は、やはり読者の視線とぶつかるような印象を与えるでしょう。

といった漫画の画面の不等質さから「論理」を発見する筋道。それは僕にとって非常に説得的だった。図式化すると次のようになる。

  • 媒体の性質による特有の論理がある→論理にしたがって解釈をする

そこでは、論理を媒体の性質にもとめることによって、解釈の方法論にたいする批判可能性や修正可能性が高まっているようにみえるのだ。つまり不安が小さくなったような気がした。問題が「書き手の意図を正しく解釈しているか?」という個別の問題から「媒体の性質とそこから生じる論理を正しく把握しているか?」とう普遍的な問題へシフトするようにみえる。


これもつづきはそのうちかきます。