読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

フシギにステキな素早いヤバさ

フシギにステキな素早いヤバさを追いかけて。俺は行くだろう。

歌詞論の端緒(その2)

前回のつづきです。このシリーズは、歌詞論を行うにあたって、自分の内面的な理由と状況的な(?)理由、理論的な理由などをすりあわせて整理したいという文章です。

ちょっとリズムが狂うようですが、前回のエントリーでいただいたシノハラさん(id:sakstyle)のコメントを全文紹介して、脇道へ(あるいは本道か)それます。

前からちょっと気になっていたんですが、

文学研究ないし批評の世界では、「実際の書き手の意図」というのをそれほど重視しなくなってからもう結構経っていて、媒体の性質に着目するというのもあると思います。
(自分の読んでないものを例に挙げるのもなんなんですが、バルト「作者の死」とか、ジュネットの一連の仕事とか)
なので、そこらへんのことって必ずしもいずみのさんにオリジナリティがあるわけではないと思うんです。
ただ、やおきさんはそこらへん(実際の書き手の意図)をすごく気にしていると感じることがあって、これは同じ文学研究であっても、ジャンルが違うと全然常識とかにはなっていなかったのかなと。それが気になった点です。


(シノハラさんから表現の訂正があったので、反映してあります。)

歌詞論の端緒 - みらくる明るいセカイ

シノハラさんがおっしゃるような点を僕自身問題としてまだ整理がついていないところがあって、だから id:ja_bra_af_cu さんの反応に対してもう一度整理をしてみようというねらいでこのシリーズを書いているという事実があります。
それは…と語りだすことは、今書こうとしているシリーズの意図がメタレベルでさらされてしまうことになり、一連の話としての混乱がおこりそうなので(僕はひとつの論を通すということを書き手としてそこまで鍛えられていないので)慎重に、少し書きたいと思います。

語用への批判

僕が親しくさせていただいているシノハラさんやja_bra_af_cuさんからしばしば批判的に指摘される、「作者の意図」や「押韻」といったことばを、僕はおそらく一般的な用法ではないやりかたでこっそりと定義し、意図的にそれを隠して用いているところがあります。
ことばの定義をまだ明確に立てないというのは、いちおうは戦略的な意図があります。
そこには僕が誰に対して書いているのかという問題があります。それを整理したいというのも、このシリーズの目的です。
ちなみに今ですます調で書いているのは、シノハラさんのコメントへのレスポンスだからでしょう。書いてて気づきました。


僕はこれまでの経験として、理論的な枠組みを先に示すよりも、まずは方法論の有効性を示す方が「ともだちを増やす」端緒になるのではないかと考えています。歌詞論という点では、僕にはそんなにともだちがいません。僕は歌詞について語りあいたいのであり、けして方法論同士をたたかわせたいのではない。
具体的には、僕は母音で韻をふむことについて、それが創作の方法論としては多用されているにもかかわらず、(現段階では)そこまで分析の有効な方法論だとは考えていません。それよりも音素の一致を優先するほうが、創作の方法論としても、分析の方法論としてもより有効だと考えます。だけど、僕はそこでイデオロギーのたたかいが生まれてしまうことを危惧しています。母音で韻をふむ、子音で韻をふむ、意味を優先する、音調を優先する、これらの考え方のちがいが歌詞についてかたりあうことを事前に拒否させてしまうとすれば、それは僕ののぞむことではありません。なぜ音素の一致を優先すべきなのかを示すのは、方法論の有効性が実践的に示されてからでも遅くはないと思っています。
それから、「作者の意図」「書き手の本来の意図」ということについては、小説を書いている人や歌を作っている身近なクリエイターと語り合うときに、たびたび喧嘩にまで踏み込むような実存的な問題を持ってきました。具体的には4名ほどの人とリアルで喧嘩をしたことがあります。ちゃんと仲直りはしていますが。作者の意図というものにはつねにエクスキューズが必要だと考えます。たんに理論的な乗り越えなどでは相手に示せないような、目の前にいる相手についての人格の問題がかかわってくるからです。
僕はたんに批評やアカデミズムのために書きたいという気持ちよりも、リスナーやクリエイターたちと創作についてはなすための論法やイディオムをきずきたいという願いが第一にあります。むしろ哲学的やアカデミックな整理への興味は自分の趣味の範疇に属しているのであって、いまはたまたまシノハラさんに「筑波批評」にお誘いいただいたから音楽について書いているという事態です。

僕の批評

シノハラさんにも最初にお話したのですが、僕は批評が好きで、しかし人には「論理的な文章が向いていない、詩や小説のほうが向いている」と言われながら、大学のときは批評を書いていました。具体的には小説や漫画などの表現論をです。たとえば大江健三郎太宰治の文章を品詞の用法からタイプ化していって文体を抽出し、システマティックに小説を実践的に書いてみたり添削してみるといったような方法でやっていました。
しかし、音楽にかんしてはライブハウスの生演奏を見ながらや、CDを聴きながら採譜や書写をとおして、個人的に孤独に創作の規則を理論化していったのであって、まさか人に示して興味を持たれるようなものではないと思っていたのです。少なくとも周りのひとで喜んで聴いてくれるひとはいなかったからです。「すごい」のひとことで、しかし難しすぎてよくわからないといった反応でした。これらはすべて自分の音楽活動のための創作的な方法論として行っていたのであって、セカイへとぶつけるべきものは楽曲やパフォーマンス自身だと考えていたのです。


文章表現としてまだ正確に再現できないのですが、つまり僕は、自分の持っているトピックのどれをある程度アカデミック(ここでは保守的というニュアンス)に記述すべきで、どれをクリティック(ここでは攻めというニュアンス)に記述すべきなのか、あるいはせざるべきなのかについて整理しないと、いけないと(自分のために)思っています。


シノハラさんの批判で「『実際の書き手の意図』を重視しなくなった」から「媒体の性質に着目する」いずみのさんの視点に必ずしもオリジナリティがあるわけではないというのは、ちょっとすれちがっているかもしれません。もう疲れたので、細かくは次回書きますが、要点を端的に書きます。僕はそれまでのたとえば漫画の表現論などで注目してきた箇所が、たとえばコマや描線といった書き手によって書かれる媒体に着目していたものが、本という支持体に注目して、画面の不等質性を指摘するような視点に、「そこにあるかもしれない書き手の意図」についてのの不安を通り越すような説得力があるように感じたということが言いたかったのです。