フシギにステキな素早いヤバさ

フシギにステキな素早いヤバさを追いかけて。俺は行くだろう。

2011年10月29日 ピーチャム・カンパニー『復活』劇評

劇評というものはあまり書いたことがない。そもそも読んでくれそうな人がいなかったからだ。だからどちらかというと読まれるための小説を書いたりしてきた。だけど寺山修司佐々木敦さんのファンである僕としては、演劇の批評とは親しんできた文学ジャンルである。そのことを思うと、たとえば、遠く離れた地に住むじゃぶらふきゅーさん(http://d.hatena.ne.jp/ja_bra_af_cu/)などが、いくばくかの興味深さを感じてくれるような文章がかけるなら、劇評も面白いだろうとは思う。

これが僕の劇評における立ち位置である。

大学のミュージカルサークルの延長で演劇をやっていた友人の山崎健太さんに誘われて、フェスティバル・トーキョーのプログラムの一環としてやっているというその演劇を見に行った。そしてそれは11月4日まで行われるようだ。

フェスティバル/トーキョー11 公募プログラム 参加作品 urban theatre series #3
「復活」
脚  本 :清末浩平
演  出 :川口典成
10月29日(土)〜11月4日(金)
@都立芝公園 集会広場(23号地)

http://peachum.com/

経緯

僕にとっては、2年ほど沖縄に戻っていたことと、東京に戻ってもしばらくはお金がなかったことから、ひさびさに見る演劇だった。山崎さんにはときどき誘ってもらっていたし、ほんとは金と時間が許せばつまらない演劇でも片っ端から見たいと思っている。だが観劇は金銭と時間のコストがかなり高い。それでも、最近引越しをしてようやく余裕ができたので、山崎さんからの誘いに乗ったのである。ちなみに山崎くんは最近フェスティバル・トーキョーの劇評コンペに応募しているみたいだ。わたしたちはあの日、何を見たのか ‐『宮澤賢治/夢の島から』評‐ | F/T11 劇評コンペ応募作品 | フェスティバル/トーキョー FESTIVAL/TOKYO トーキョー発、舞台芸術の祭典

公演の劇団名はピーチャム・カンパニー。実はなんとなく知っている。なぜなら、演出の川口典成さんの名前は、大学のころの学内・学外の公演で知っていたからだ。僕の知る限り、彼の関わっていた劇団名はサーカス劇場や劇団3mmという名前だった。キッチュやポップではなく、わりとアングラで若干物語的かつメッセージ性を重視する作風だった様に記憶していた。
f:id:yaoki_dokidoki:20111030135638j:image:w360
また、ピーチャムというのは、僕の友人が飼っていたチャムというある犬の固有名詞を思い出させるため、とりあえず「ピーチ+チャム=桃+犬」というのが僕の語感による劇団名の把握であった。それからカンパニーを名乗ってるということは、劇団という呼称はとりはらったものの、単なるユニットではなくある特定の意志・意図をもった活動をしている団体名としてとらえられると僕は考えた。

この導入部でなぜ「川口典成」と「ピーチャム・カンパニー」というふたつの固有名詞に触れたのかというと、観劇にともなう金銭的や時間的なコストの理由から、このように僕が身構えていどむのを示したかったからだ。少なくとも、その劇団がどのような来歴を持っていて、「ことば」による概念操作に対してどのような志向を持っているのか、それを知ることは演劇の享受において役に立つと僕は考える。(ちなみにピーチャムはブレヒトの「三文オペラ」の登場人物らしい)

場所

上演は東京都の芝公園で夜行われた。これが意味するのは、東京タワーという鉄製の舞台装置を、電飾を光らせた状態で背負うということだ。

野外公園ということで、冬用の恰好をしてくださいとホームページには書いてある。これはやばいと思い、行きがけに僕はユニクロでなにか暖かい上着かマフラーを買おうとしたのだけど、時間がなくてそれを手に入れることはできなかった。

したがって僕にとってこの『復活』という演劇は、夜の東京タワーのふもとで、秋の寒さの中で行われる体験として現れた。時間は夜の19時開演、21時までの2時間である。後半の一時間は肌寒さに震えながら、一度トイレにも行ったりしながら観劇した。

舞台装置

実際、東京タワーは借景のように背後に置かれていた。劇中で度々引用される「あの東京タワー」ということばが、その背後にみえたほんものの東京タワーをその度にさししめしていた。東京タワーはあまりにも近く、普段の遠景としてではなく、完全な近景として舞台装置に加わっていた。僕は演劇という身体と建築そしてことばの芸術において、目の前にそれがモノとしてあることがいかにことばに意味や価値を持たせるのかということに改めて実感せずにはいられなかった。

私たちの見ている東京タワーの前には、森のような木々の茂みが置かれた。それもまた野外劇場である芝公園の設備としてそなわっている茂みであり、それもまた劇中で何度も参照される森の役目を負わされていた。東京タワーは私たちの頭上に明るくそびえ立つが、木々たちは東京タワーの脚を私たちから遮るようにそこで暗くかがやいていた。これがその場所に不動産としてあった舞台装置だ。人間の目から見た大きさはちょうど公式ホームページ(http://peachum.com/)の写真の通りだと思う。

さて、その地にピーチャム・カンパニーが用意した舞台装置は、森の手前に鉄骨で組まれたアーチ状の構造物である。そこにはたくさんのアナログテレビが設置されていて、一斉に映像を映し出す。構造物の上方には、野外の音楽ライブイベントなどでよくあるように照明がいくつも備えられている。実際、僕が会場に少しだけ遅れて入場したとき、そこには忌野清志郎のパンクバージョン「君が代」が流れていた。舞台の背後からみたこの舞台装置はまるでライブステージのようだった。
ピーチャムの仕掛けは他にも、

  1. 台詞を英語字幕で同時に映し出すディスプレイをひとつ、舞台の観客に近い右袖に備え付けていたこと
  2. 天蓋がついていないトラックに大太鼓やテーブルを備え付けて、シーンの転換で移動する舞台として用いていたこと
  3. まるでミュージカルのように、タクシーを乗り回したりそのボンネットや屋根の上を舞台として用い、踊ったり抱き合ったりしていたこと
  4. 自転車を乗り回し、自転車で走る人間が停まっている自転車にぶつかる演技を2回ほど行ったこと
  5. 大八車に人間をのせ、それを人間が引き、移動しながら演技を行っていたこと

などがあった。

したがって彼らの人為的な舞台装置は、第一に音響・照明装置。

第二に、東京タワーの電波塔という役目から発想された「アナログテレビ」と、時には役者が台詞をしゃべっていないのに英訳された状況説明が映し出される英語字幕ディスプレイ。

第三に、東京タワーの脚元に置かれたカラフト犬の像(南極観測隊のソリを引いた犬たち)から発想された、人間を移動させる舞台装置としての乗り物。

および、私たち観客が座っていた階段状の直線的な観客席である。

概要

1

物語は、未来から始まる。アメリカ合衆国の一つの洲となった日本が、福島の悲劇を経て汚染された大地が半減期を迎えたことによって再び開拓されるというところからだ。放射性物質によって人々が引き上げてしまって荒廃した東京には、かつて電波塔であった東京タワーが遺跡として佇んでいる。それは紅白に塗られた「ストライプ」のデザインと、星の輝く夜に「スターズ」を背負うことによって日本がアメリカ合衆国に憧れていたことを示していると劇中では主張される。

アメリカの支配に対するアンビバレントな気持ちを持っている僕には、当劇における政治的な含意には同意しがたいが、僕は演劇におけるこのような解釈は好きだ。私たちが日常的に目にしているものに批評的にアメリカのデザインを読み取ること。それは詩的であり劇的であり面白いと思った。だがこのような劇中における主張は、僕には次のようなメタメッセージとして把握されるのだが。すなわち、この劇中において想像上の東京タワーはアメリカ合衆国に対する「従属の象徴」なのだと。実際劇中では、「私たちは東京タワー=アメリカをいつも仰ぎ見ながら戦後の復興を行ってきた」という意味のことがはっきりと語られている。

(このように劇中のコードを規定して、僕は演劇を見るのである。詩的言語や演劇の言語についての僕のまなざしはそのようにいつも働く。)

ここでは東京タワーは福島の放射能汚染を克服し、復興を願う未来の「アメリカ合衆国日本州」の希望を照らす灯台だとも主張されている。

2

したがって私たちは、劇が導くように、戦後の戦災からの復興と、現在の震災からの復興とを重ね合わせ、上演中に私たちの眼前で電飾を光らせながら佇立する東京タワーを、アメリカを仰ぎ見るように畏敬しながら、復興の象徴として見るという想像的なコードを共有しなければならない。

ここで劇中の時代は東北震災後の日本へとタイムスリップするように戻る。そこではアナログ放送が得体の知れない犬たちの鳴き声によってかき乱され、ディスプレイには砂嵐が映し出され、番組が受信できない事態になっている。東京タワーの周囲に野犬がいるようなのだが、人体改造をほどこされて聴覚や嗅覚が発達させられた保健所の犬狩り係の精鋭たちですらその姿をみつけることができないのである。なぜなら、その犬たちは「匂いもしない」し、「声が森に跳ね返って吠え声の元を特定することができない」からだ。

犬は、もちろん先に述べたように東京タワーの脚元のカラフト犬像ではないかと劇中で推察されるが、カラフト犬は像である。だからこそそれは匂いがしない根拠になるのかもしれないのだが。ともかくこの劇中ではふつう犬は私たちの知るような血肉を持った犬であり、銅像が吠えたり動いたりする事態は常識的ではないということが、確認される。だからここでは匂いのしないその犬たちは不気味な存在として現れるのである。

どうしようもなくなった保健所の職員たちは、犬殺しのカリスマを呼ぶことにする。メッキー・メッサーと呼ばれる「臭い」男だ。だがメッキーですら、犬がどこにいるかを突き止めることができないのである。ここにひとつの狂気のロマンスと悲劇の挿話がさしはさまれる。メッキーがかつて恋愛関係にあった女の子と再会するのである。女の子の名前はネロ。劇中でも繰りかえしテーマ曲が流されるのだが、「フランダースの犬」になぞらえた登場人物である。彼女はかつてメッキーをパトラッシュと呼び、ともに彼の運転するタクシーで車上生活を送っていたのである。後に彼女はメッキーとわかれ、酒場で知り合った別の男をパトラッシュと呼んで自分の乗った大八車を引かせる。その男に東京タワーまでつれてこられたところで、ネロはメッキーと再会したのだった。

ここまでのエピソードを見ている間、僕が考えたのは「犬」についてである。つまりこの劇において犬が重要だということはわかった。では、犬は何を象徴するのか。劇中でどんな機能を持たされているのか。

第一に「犬」は東京タワーの脚元に置かれたカラフト犬を経由して立ち上がったイメージだと思われる。このことは劇中でも触れられるのだが、カラフト犬たちは南極観測隊の物資が乗ったソリを引く動力源として同行したものの、南極に置き去りにされた。これは私たちの知る現実で起こった事実だ。率直にいえば「かわいそう」な犬たちであり、「ありがとう」と感謝されるべき犬たちである。同時に、彼らの死を悼み称える銅像としての犬たちでもある。このイメージは次の第二の犬を形成する。

第二に、「犬」はアナログテレビの電波を阻害する幽霊的なイメージとして劇中では現れる。実際にはしっぽをつけかぶり物をした数人の役者によって、実体を持ったようにみえる存在として劇中に登場し、人々を撹乱するのだが、それでも彼らは不気味な存在である。この犬はなんだろうか。その疑問は留保する。

第三に、「犬」は私たちが名画劇場で知るように、テレビアニメ「フランダースの犬」に出てくるパトラッシュとしてシンボリックに現れる。実際、この歌(http://www.dailymotion.com/video/x2msi3_yyyyyyyy_news)はくりかえし劇中で歌われ踊られる。とはいえ、劇中ではアニメのパトラッシュそのものとしてではなく、「パトラッシュ」と呼ばれる乗り物としての男たちの呼び名として機能する。つまりネロとパトラッシュという固有名詞は、劇中ではそのモチーフあるいは戯画化されたものとして登場している。とはいえ、パトラッシュはネロと共に旅をし、ネロを目的地まで励ましながら導き、共に死ぬという私たちによく知られた役割が、劇中でも参照されているものだ。

犬は私たち人類が古くから共に暮らしてきた家畜であることが知られている。したがって一般的に、犬は私たちにとって友だちの象徴であり、忠誠の象徴である。この親しさ、文化的な距離の近さがカラフト犬やパトラッシュと人間たちの関係を生んだのであり、私たちの心を深く動かすドラマを生んだのだ。さらに犬は、私たちのよく知る愛玩動物としての役割をもつ。孤独を癒す役目として、南極観測隊や両親を失ったネロの心の支えとなっただろうことは想像しやすい。劇中でもメッキーは「犬」としてネロの弱さを支える役割を担っていた。

3

ではネロとメッキーはどんな関係だったのか。そして「犬」とは何なのか.

ネロもメッキーも実は親がいない子供である。したがって二人は自分自身に何らかの欠落があったのだという自認を持っている点で共通点を持っている。二人は東京で出会い、タクシーの運転手だったメッキーはネロの指示にしたがって震災後の福島へ向かう。人のすっかりいなくなってしまった民家の庭につながれ置き去りにされた犬をどうすることもできないと考えるネロは、同情の気持ちから犬をナイフで殺そうとするのだがうまくできない。それを見かねたメッキーが、ネロの代わりとなって犬を殺すのである。以後、ふたりは夏中を通して福島の原発20km圏内の犬666頭を殺す旅をつづける。メッキーが犬を殺し、ネロはそれを見て嘔吐する。そんな旅である。庭につながれ死を待つ犬のために、「そうするしかないから」殺す。森鴎外高瀬舟森鴎外 高瀬舟)を思い起こさせるような倫理的な問いを抱えたエピソードである。

だが東京にたどりついたメッキーは気を狂わせる。東京タワーにのぼり、ネロとふたりで展望台から東京の街を見てすぐ後のことである。タワーの脚元で、ナイフを持って、カラフト犬の像になんども刺しつけて、殺そうとする狂気に陥るのである。ネロとの別れはその時であった。

メッキーの狂気は、東京タワーから見えた景色に原因があったという。すなわち、東京の街が何も変わらないこと。自分たちがひと夏をかけて福島原発の20km圏内の犬を殺してまわっていたのはいったいなんだったのか。おそらく一言でいえば虚無感や脱力感。そこから生じる無力感だろうか。それにメッキーとネロは打ちのめされたのである。かくしてメッキーは狂気にしたがい、東京中の犬を殺害しようとする男になったのであった。そして、ネロはそれに愛想を尽かしたのである。

第四に、したがって、「犬」は福島の犬である。庭先にリードでつながれたまま、戻ってくることのない飼い主を待ちつづける悲劇的な存在である。親をなくしたふたりの登場人物の設定も、その福島の犬たちと重ね合わされる。ここでは犬は、親しさや忠誠、孤独を支える存在の象徴を離れ、むしろ意図せぬ形で起こってしまった裏切りや絶望的な孤独の象徴となっている。おそらく、南極に置き去りにされたカラフト犬たちの境遇とも重ね合わされているのだろう。

4

メッキーは言う。「福島の犬と東京の犬にどこで線引きなどできるのか」と。そして彼は福島の犬と東京の犬のあいだに線引きはできないと考え、だから東京の犬も殺されるべきと考えた。これが彼の狂気である。

一方、ネロは言う。「私たちの夏は終わった。福島の犬を殺す仕事も終わったのよ」と。彼女は福島の犬と東京の犬のあいだに線引きをしており、したがって狂気ではなく理性的であるように見える。

僕は思った。これは確かにありうる問題提起だと。メッキーのいうように、いつだってこのような問題において線引きなどできない。だが私たちはたとえば行政的なやりかたによって線引きをしなければならない。その強制はしばしば倫理的な理由ではなく、合理的な理由によってもたらされる。そしてもちろんそれは悲劇だ。

5

だが、僕がこだわるのは「福島の犬」とは何かということだ。それが何を象徴しているのかということだ。僕には観劇をしていても、それがわからなかった。アナログテレビの電波を遮り、匂いのしないというあの幽霊的な犬たちはどうやら福島の犬たちだったようなのだが。

メッキーは最後の幕において、狂気を募らせ、ナイフによって人々を殺戮する。彼の論理においては、おそらく福島の犬の死と東京の犬の死に線引きができないことが、東京の「人」の死にも線引きができないというところまで敷衍されたのであろう。最後に彼のナイフはネロを刺すのだが、ネロに刺さったナイフはそのまま彼女の体から抜けなくなり、そのナイフで人を殺すことはできなくなる。以後、細かい筋は僕にはよくわからないままに劇は終焉を迎える。

疑問

福島の「犬」とはいったいなんなのか。

結局、僕にはよくわからなかった。

補遺

公演中にエントリーをアップしたかったので、ここでとりあえず中断して上げました。つづきは書くかもしれないし、書かないかもしれない。