フシギにステキな素早いヤバさ

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?「微分」?『イメージの進行形』読書メモ

最近ブログの更新頻度が多いのは、単にはてなブックマークの上位互換としてつかおうと思ったためだった。ところが、書く時間がけっこうかかっているので、これを縮減して負担を減らしたいところ。

さて、渡邉大輔さんの『イメージの進行形』を読んでいるが、ここまでで引っかかったキーワードがある。「微分」ということばだ。試しに「映画 微分」ということばで検索しても、それらしいタームは出てこないし、「映画 微分化」ということばでは、渡邉さんの下記文章がヒットするにすぎない。

【特別寄稿】映画のデジタル化について――『サイド・バイ・サイド』から考える text 渡邉大輔 - neoneo web

とはいえ、Twitter上で仲山ひふみさんから、おそらくドゥルーズの用語を援用しているのだろうという指摘があった。ジル・ドゥルーズ - Wikipediaを見る限り、確かにドゥルーズが数学の微分の概念を哲学に転用し、差異の哲学を構築したというような説明がある。

ブログ記事をいくつかみていくと、ドゥルーズの用いたという微分の概念は、一般的な微分法における係数の概念に擬えられるようで、ある一点(というか微小な範囲)における変化から全体の動きを予測し読みとるような姿勢であるらしい。

たとえば下記のブログの例。

連続写真の前後の差異を計測することでどの時点で本質が実存に取って代わられるか捉えようとするのです。ドゥルーズは映画を愛しましたが、ドゥルーズの差異というのはこのように動的変化を連続写真に分解することに由来しているのかもしれません。(中略)この例で言えば、ドゥルーズの差異は各写真での微分係数を析出して対象の全体を捉えるようなものだと思います。

NEOACA BLOG: 差異と生命

一方、渡邉さんの用いる微分とはそこまでを指示することばではないような感じもする。ぼくが読んだ範囲での使用例を下記にあげておく。

下記の例における「微分」ということばは、「多層/ 複層」との並記だったり、「拡散」とイコールで結ばれるものとして現れている。だから、断片化とか細分化とか散種(これはおかしい?)のようなニュアンスで今のところは読み進めている。

今日のところはこの疑問のメモまで。

パラパラめくった感じ、この「微分」ということばは頻繁に出てくるし、ググっても渡邉さんの文献が出てきたりするので、みなさん気をつけて読んだ方がいいよ。たぶん。

1.

ウェブないしソーシャルメディアというプラットフォームを媒介にして、増幅化/多層化/微分した映画や映像コンテンツをめぐる新しい文化的やりとりのあり方が、ここ十年ほどのあいだに陸続と現れ続けている。

渡邉大輔『イメージの進行形』、p13、人文書院、2012年。太字強調は引用者による)

2.

現在、わたしたちはケータイのムーヴィー録画機能から監視キャメラなどのセキュリティにいたるまで、急激にモバイル化やネットワーク化された社会に遍在する撮影機材=アーキテクチャに取りまかれ、同時にそれらの情報処理のアルゴリズムを前提にしてコンテンツを製作したり消費することにより、いわばつねにすでに「現実世界」と「映像世界」の区分が脱臼された「ハイパーリアル」(ボードリヤール)なイメージの微分で複層的な布置(configuration)のなかに置かれているといってよいだろう。

(同上、p.28。太字強調「つねにすでに」は原文で傍点だった箇所。「微分的」は引用者による。)

3.

大なり小なり自分たちの身の丈にあったリアリティ(日常性や事実性)の消費が、一面でコミュニケーションを活性化させ、多面、そうしたコミュニケーションの蓄積によって高度に拡散化=微分したイメージが、テクストの「映画的なもの」としての固有の価値を凝固させていく。

(同上、p.39。太字強調は引用者による)