【メモ】文体と語彙、概念操作と読者について誰かがつぶやいていた
『フミカ』では、必要ないときは出来るだけ平易な言葉遣いをしようと心がけていることはあって、それは高校生だった頃の自分とかに「ことば」を与えるものだったらいいなという願いがあったりするからだ。そのとき、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』のフィービー・コールフィールドみたいなみずみずしい世界の捉え方で書けたらいいよな〜とか思ったりする。ぼくにとって世界の捉え方とは、まず文体や語彙の選び方のことだ。
『筑波批評』の方では、シノハラさんから、逆にあまりくだけた書き方をしなくていい、と示唆されたこともあり、語彙や文体にあまり制限をかけずに、「レトリックで書いてる」とは思われないようなプレーンな記述だけは心がけながら、書いている。こっちの方が文体とかに気を使わないでいいので楽ではある。
フミカは、自分が不必要に難解な言い回しをしていると感じたら、いちいちニュアンスや概念の範囲を壊さないように語彙を書き換えたり、ロジックを分割して少し単純化して記述している。
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自分でルールを決めているのに、少し思考が働きはじめると、気づいたら衒学的な語彙、難しそうなレトリックがサッと出てきて、上図のヒナギクのように、「バカバカ〜! フミカのバカ〜!」といいながら頭をポカポカなぐってしまう。
すぱんくtheはにー
Twitterですぱんくさんが下記のポストについてコメントをしていたのを見かけた。
面白いと思ったのでメモした。
昔、読売連載で筒井康隆が存在しない偽書の書評を担当記者了解の上掲載、クレーム来るか試したところ皆無でガッカリ、てのがあったなぁ> 衝撃の知的詐欺「ソーカル事件」から学ぶ二つの教訓 http://m... →http://t.co/3bepgQq2FD #bookmeter
— 澤水月 (@suigetusawa) 2013年5月20日
「本当に賢い人は、難しい事柄を易しい文章で説明できる」というのは確かに一方では真実だが、そこでは厳密性や繊細さ、あるいは正確性が犠牲になっている。つまりそれらが「必要でない」人に向けての説明になっている。
— すぱんくtheはにー (@SpANK888) 2013年5月20日
つまりここで言われる「本当に賢い人」というのは、相手にどの程度の理解力があって、どの程度の正確さを求めているか判断できる人、ということになる。
— すぱんくtheはにー (@SpANK888) 2013年5月20日
@yaoki_dokidoki 「難しい言葉」って、つまりは今までの研究だったり思考だったりという文脈の積み重ねから生まれているので 新しいことをしようと思うなら使って当然なのですよね。「誰向けに書いてるのか」で使う言葉を分けるしかないのれす^q^
— すぱんくtheはにー (@SpANK888) 2013年5月20日
例えばギターのコード 私は「コードとは3音の和音だ」ということは知ってるけど(だよね?)「Cm」とか「F」とか言われても、それがどんな音なのか想像もつかない。当然ギターをやってる人にはコード進行が役立つし、私には超初心者用の教本が必要だ。
— すぱんくtheはにー (@SpANK888) 2013年5月20日
全ての言葉は文脈に紐付いている。 だからその場(受け手含む)の文脈に合わせた言葉が必要だし、それは受け手にも「自分にはまだ文脈が足りてないのでは?」という内省を行う緊張感が必要なのだ。
— すぱんくtheはにー (@SpANK888) 2013年5月20日
補足
ちなみにぼくは大学では国文学を専攻していて、好きな小説家とかパクりたい小説家とかがいた。文体分析をして、それをもとに構造をパクろうとしたのは、芥川龍之介の衒学的な文体や、初期の大江健三郎(『芽むしり仔撃ち』)の衒学的な文体、太宰治のスキッとしているがへんに長くて饒舌な文体、初期の村上春樹(『羊をめぐる冒険』、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』)などであった。
また、批評的な文を書くに当たっては、大澤真幸(『身体の比較社会学』)や初期の東浩紀(『存在論的、郵便的』『郵便』)を品詞でコード化し、その構造を元に書いていた。
大澤真幸の文体は、主語の捉え方がとても面白く、たまにああいう文体で書くと世界が変わって見えて面白い。