フシギにステキな素早いヤバさ

フシギにステキな素早いヤバさを追いかけて。俺は行くだろう。

アニメ『中二病でも恋がしたい!』についてのエッセイ

Blu-rayを買おうかと6ヶ月ちかく悩んでいて、先日ついに勢いで買ってしまった。

検索語「中二病でも恋がしたい OP 眼帯」でググると、次のような記事が見つかる。

http://d.hatena.ne.jp/shirooo105/20121005/1349372732

「中二病でも恋がしたい」OPの演出がすごい - Cat of AZ

まとめ記事も見つかる。

http://garethbale.blog.fc2.com/blog-entry-1625.html

片目視聴というのは、とうぜんながら六花の視界のシミュレーションという要請からなされたものだろう。ちなみに、ぼくの感触だと、片目視聴をすると中心の線を「軸」にして、映像がくるくると回転しているように見える。(「理想も妄想も現実も すべて君を軸にまわる」の「軸」だろう。)画面手前から画面奥へのこの回転運動と、サビ「夢なら〜」での六花の画面上下左右方向への回転運動とが、あのサビのすてきな感覚をもたらしているのだろうなともうそうしたりする。

最初は水平だった空と海の境界(水平線、不可視境界線)がぐるんと回転したのちに垂直な線へと変わる。

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だが対称のようで対称ではない。

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小鳥遊六花は右目を眼帯で隠していて、左の目では現実(リアル)を、右の目ではそうではないものを見ている。OPの画像もまた、像としては左右対称だけど、左側は実像を映し、右側は水面に映る虚像を映していることに合致している。この非対称性は、右側の像がフィルターのかかったようなぼんやりした輪郭とレンズフレアのかかったような色合いを持っていることで知覚できる。京都アニメーションらしく、表現が光学的だ。

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さきほどのカットでくっきりと描かれていたものが、「中」の字形として再現される。画面の上下を縁取る白い枠は、六花というキャラクターのモチーフであり、中二病というテーマをヴィジュアライズする眼帯のイメージであることがここでわかる。もちろん六花と同じくタイトルロゴの「中」の文字も右目に眼帯を負っている。

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中二病の眼帯が示しているのは、現実と虚構、光と闇の両属性を併せ持つことであり、現実を見つめながらにして一般人には知覚することのできないもうひとつの現実を見つめる「能力」の存在である。

ところが、カメラのような単眼レンズによって得られた像は、実像をひとつの焦点に集めて得られたものであり、いわばセカイを片目でみているようなものだ(たぶん)。区切られることなく横いっぱいに広げられた画面のなか、くっきりした線画の輪郭を備えてこちらを見つめる六花と、ぼけた背景は、さきほどのべた京アニ的な光学表現を示している。

太陽からさした光線が六花の目で反射し、画面のこちらのわたしたちへと届くので、わたしたちは六花がこちらを見つめているのだということがわかる。瞳の中の白い光が、六花がこちらを見つめているしるしなのだ。だからそれは六花の左目が「光」を見つめているしるしだ。

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この次のカットではチカチカが始まるが、最初のフレームでは六花の視界とは逆に、右側の光景が映し出さされたカットとなる。映像的な連想から考えると、まずタイトルロゴ「中」での眼帯の位置(向かって左)が次のカットのこちらを見つめる六花の眼帯(同じく左)を継承し、ちかちかアニメーションの始めのカット(同じく左)へと継承されたのだということができるだろう。

右側(虚/闇)の世界

この後のカットを、右側が映されているほうに注目して見ていこう。まず、六花の左横顔が映される。したがってわたしたちは六花の右目を見ることができない。

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一方、森夏のカットでははっきりと両眼が映し出される。森夏は何を見ているんだろう。

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くみん先輩のカットではまず昼寝をしている、したがって両目を閉じている様子が映し出される。つまり、くみん先輩は「光」でも「闇」でもなく、また「現実」でも「虚構」でもなく、「夢」を見ているのである。

六花のように片目を覆うこと、中二病として生きることは、そのようではない境界性を必要とすることが分かる。

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次のカットでのくみん先輩は、六花と同じく左横顔のみを映し出されている。これは何だろう。

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凸守のカットでは、森夏と同じく両眼が映し出されている。かわいい。

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その次のカットでは、こちらを向いて両眼を見せている勇太くんと、背中を見せている六花とが映し出される。

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そして、右目を眼帯で覆った六花の正面。

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サビでは、右目を眼帯で覆った六花が複製され、右画面と左画面の両方に映し出される。六花は隻眼だから、これで目がふたつになる計算だ。

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左側(現実/光)の世界

いっぽう、サビに達するまで、左側の画面では、六花および下図の勇太の左横顔のカットをのぞいてはみんな両眼で映し出されている。

まあ、ふつうのキャラクターが両眼で映し出されることは取りたてて語ることでもないだろうね。

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六花の右目

この勇太の直後のカットでは、左横顔を見せていた六花が、サビのほんとうに直前でふと右横顔を向ける。眼帯で覆われた右目は何を見ているんだろう。

OPの最後のカットでは、ふたりはまるで手をつないでいるように見えるけれど、この右横顔の六花は、勇太の自転車の荷台にでも座っているように見える。そして左向きの勇太とはきれいな対称の右向きを形づくっている。

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