フシギにステキな素早いヤバさ

フシギにステキな素早いヤバさを追いかけて。俺は行くだろう。

杉本克哉・個展「みえる、みえない、みる、みない」レビュー、その1

その2があるかはわかりません。

Frantic Gallery | 「みえる、みえない、みる、みない」 杉本克哉について。

ながめの前置き

まずは「われらの時代」の閉塞する未来を、批評・思想によって逃げ延びようとさせてくれる、希望の星であるてらまっとさんの感想を貼付けておきます。

杉本さんのことを知ったのは、てらまっとさんらの主宰した「花見2.0」というイベントに参加したときだったと覚えています。たぶんですが、このときのてらまっとさんというのはとても辛くて、行き詰まっていて、この先の人生に未来・将来はあるのかと思いながら生きていてこんなことをしてしまったのじゃないかと思います。少なくともぼくはそんな気分でした。


週末思想研究会《花見2.0》 - YouTube

貼付けた動画の2分35秒あたりから出てくるシーンが、杉本克哉さんのお宅で記録されたもので、馬のかぶりものやプリキュアを桜の鉢植えの飾りとして据え付けた祭壇でした。

その後もご縁があり、幾度かお宅にお邪魔したりしており、部屋にいくつか兵士のフィギュアがあったりするのは知っていました。けれど、作品をきちんと見るのは初めてだったと思います。

会場は世田谷ものづくり大学

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杉本克哉の個展「みえる、みえない、みる、みない」の会場である世田谷ものづくり学校の近隣では、たくさん育っていたミントっぽい植物を見かけました。

おお、ミントがこんなにも茂っている光景はレア(希少価値がある)ではないかと思い、よろこんで葉を1枚かじって見た。しかし別にそれっぽい味がしない。この葉脈の感じとか、葉のふちの感じは確かにミントっぽく見えるのだけど。花がこれで正しいのかを、あとで確認しようと思い、花を写真で記録しました。

ひょっとすると体に悪いものでも食べてしまったかな?と思いながら、会場へ向かいます。

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みればわかるように、「Ikejiri Institute of Design」の略でiiDと表記されています。

昔、ぼくは池尻大橋に住んでいて、そのときに付き合っていた、絵を描いたり絵本を読みきかせしてもらうのが好きな女の子とここに遊びにきたりしていたので、そのことを思い出し、切なくなりますね。

写真の下方にも見えていますが、世田谷のこの地域は緑がわりとフィーチャーされています。

制作風景

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会場に入ると、右手にアーティストの作業スペースを再現したようなエリアがありました。本展示のメインともいえる、「カムフラージュ」の絵の制作過程が露わになっています。また、壁面に多用されているマスキングテープは、この次に展示されている「イグジスタンス」シリーズにも出てくるモチーフで、アーティストが日頃マスキングテープというものを記号としてこういうふうに使っているということを暗黙に読みとらせています。

カムフラージュ・シリーズ

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「カムフラージュ01」(正式な表記は「Camouflage 01」)

オイルペインティングで、完全に平面な作品です。

個展のDMにつかわれたという案内文の冒頭に用いられている作品「カムフラージュ00」と同じシリーズで、インパクトのつよさというか、キャッチーさにつよさがある作品です。

先ほどの制作風景の再現エリアでは、ウィリアム・モリスのカタログが転がっていたりしたのですが、パッと見、飛び込んでくるのは壁紙の花柄と、それを支える葉や茎の造形です。

したがって第一に、この絵画の価値というのは、壁にこれを掛けることによって、壁紙としての価値を持つだろうということでしょう。

残念ながら(とても残念なのですが)、ぼくが行ったときには、すでにこの作品は売れてしまっていましたが、ぼくはコレが欲しかったです。とてもいいものだと思いました。これをぼくの部屋の壁に飾ったら、どんなに気持ちのいい生活が送れるでしょうか。そう思いました。

つまり、ファッショナブルオシャレなのです。

理由としてはとても単純で、花柄であるということ。色合い、水色と黄色の優しいトーンの組み合わせ(対比)が美しいということです。

もちろん、この壁紙だけでは作品としての価値を見なかったでしょう。デザインとカラーリングの美しさは感じたでしょうけど。

したがって、第一の鑑賞ステップとしては、水色、白の反復のストライプ+黄色、白の反復のストライプに注意しながら、左と右とで水色と黄色となされた背景の対比に関心を持ちたいところです。

このベースに対して、ヴィヴィッドなピンク、イエロー、グリーンが花や葉、茎として壁紙の前景のモチーフを形づくる。壁紙なので、縦にうねる茎によって形成された曲線と、マンガのスクリーントーンのごとく規則的に散らばった花+葉のパターンが、華やかな秩序を与えています。

ここに満ちているのは「生」の感覚でしょう。もちろんこれは壁紙かつそれを描いた絵画なので、二重の「フェイク」を背負っていますが。

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キャンバスを斜めの立ち位置から眺めることによって、この絵が騙し絵(=「フェイク」)であり、フラットな作品であるということが理解できます(ところが、壁紙性は、もともと壁紙がフラットな形式であるために、銃とはちがうフェイクさのレベルを帯びているようです)。

この「華やかな秩序」を以て、第一の鑑賞ステップのファッショナブルなオシャレさを指摘したいと思います。

第二の鑑賞ステップとして、よく見れば(よく見なくてもだけどw)「カムフラージュ」(すなわち「みえない」化)された拳銃がそこに掲示されていることがわかります。

どういう仕組みで固定されているのか、絵を見てもわかりかねますが、影の濃度から、それが空中に浮遊しているのではなく、壁に接して固定されているのだということが想像されます。

したがって、この絵が、オイルペインティングのもつツヤや陰影等を生かしたフォトリアリスティックな技法によって、「背後の壁紙に擬した花柄にカムフラージュされた銃が、壁に固定されている様子を描写したもの」という内容によってここに表現されている、ということ分かります。

この鑑賞ステップでは、そこで描かれている銃が本物なのかフェイクなのかという判断はつきませんが、ともかく「花」の象徴する生とは対照的な「死」がここに描かれていることが直観的に把握されます。

銃は、火薬による爆発の力を用いて、高速の弾丸を発射し、対象にぶつけて、そのときに発生する力を利用して対象を破壊する利器です。

第三の鑑賞ステップでは、水平と垂直という対立を見ることができます。

生(性かもしれない)を象徴する花は、あるものは蛇行しながら垂直に茎を伸ばしていますが、死を象徴する銃は、水平に弾丸を発射することで死・破壊をもたらします。

つまりここには、力学的な対比として、生=垂直(とくに上昇)と死=水平が図式的に描かれているのです。

一触即発な雰囲気を漂わせ、向かい合わせになった拳銃は、この「みえない」水平な線をわたしたちに静かに感覚させ、絵画の中に感覚的に浸透させています。

第四の鑑賞ステップでは、先ほど述べた「フェイク」という概念が意味を持ってきます。というのも、杉本克哉の他の作品を一瞥すればわかるのですが、この生や死の対立を描くにあたって、フェイクを技法的に用いていることが理解できるからです。

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この「1 to 2」という作品には顕著に死と生が顕われていますが、同時にフェイクとしての生と死が二重に描かれています。

花や、飛び散った赤い液体(これは同時に死をも表現していますが)は、を表しています。ところが、逆さまにつり下げられていることから、花は垂直な動機をもっているものの、先ほど述べた「上昇」ではなく、「下降」すなわち死への動機を持っていることが理解されます。花をこのように下に向けるのは、具体的には、生花をドライフラワーに仕立てるときのケースです(みずみしい生の状態をできるだけ恒久的に保存するため、ミイラ化させて固定化するための方法なので、赤い液体と同じく両義的な状態ともいえるでしょう)。

また、1人の白い兵士と対峙した2人の兵士は、死を表しています。人数的な優勢もさることながら、画面に対して背を向けている白い兵士に対して、正面を向けている黒い兵士のほうが、おそらく次の瞬間には敵に死をもたらし、勝利を得ていることが想像されます。

ところが、ここで演じられている生死の劇はいうまでもなく、つり下げられた造花と、兵士のかたちをしたフィギュアの配置であるというフェイクさに満ちています。同時に、これがそれらを貼付けた立体コラージュでもなく、オイルペインティングで再現した平面油彩であるということで、二重化されたフェイクさが提示されるのです。

したがって、再びカムフラージュ・シリーズに戻ると、ここに見えている銃が、フィギュアと同じくモデルガンであり、「フェイク」のレベルにあるということが推察されます。実際、ここは日本であり銃刀法があるため、展示会場にあったこの絵の参照先である「壁紙に銃が貼られたモデル」では、その銃がフェイクであることは明らかです。したがって、この絵画「カムフラージュ01」で描かれているのも、フェイクの銃であると結論(推察)できます。もちろん、これが実物のコラージュではなくペインティングであるということを考慮するとフェイクさが二重化されるわけです。

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わたしたちは、絵という絵がフェイクであるということは理解していますが、このように「壁に接した物体」というフォトリアリスティックな表現が、まさに世田谷ものづくり学校の白い壁に接して掲げられていることで、「リアル」の陰影と「フェイク」の陰影とが同居しているのに錯視しなければならないという状況に置かれます。

残念ながら、世田谷ものづくり学校のギャラリーでの照明の方向と、絵画内の照明の方向が異なるために、そこに形成された陰影の様子も異なっているため、わたしたちはそれが違うレベルにある陰影だと認識できますが。

この隣に展示されていたのが、「カモフラージュ00」です。

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ここでは、さきほどの01と比較すると水平・垂直の対比は縮退しています。その理由は、「向かい合わせ」つまり対立の構図が失われたことで、水平の図式が減退したこと、および、地色のストライプの柄や伸び上がる茎の柄を採用しなかったことで、垂直の図式が減退したことです。

むしろここには、01の小さなユニットで形成された花のパターンとは異なり、銃口の先に花開いた花柄が、直截的に負傷や死を象徴しているような気配さえ感じ取れます。

01が図式的・理知的に生と死の対立を表現しているとすれば、00はより感覚的・大胆にこの二者を同居させているのです。テクスチャー的には、銃器というよりも磁器のように柔らかな華やかさを持ち、やはり壁に掛けて紅茶とケーキを楽しみたくなるような絵画です。

とりあえずここまで。