フシギにステキな素早いヤバさ

フシギにステキな素早いヤバさを追いかけて。俺は行くだろう。

高田馬場を歩きながら ATOK Pad for iPhone でつぶやいたこと

押韻とはなにかを考える発端

僕がなぜ韻について考え始めたのかを、ほんとうはTwitterで書きたかったのですが、出勤途中に歩きながらiPhoneにメモしました。それをここで書こうと思います。

僕は現在のJ-POPやアニソンにおける作詞法が、西洋音楽やポップスの作曲理論の思考の比喩として成立しているのではないかと考えています。にもかかわらず、音楽の批評はこれを語ることばを持っていない、あるいは、そのことばを作りだそうとする者が少ないのではないか。

僕が押韻の定義について考えざるを得なくなったのは、あるとき、
「自分の中で生まれた歌詞についての考えや感覚を他人と共有し、それぞれのばらばらなことばではなく、お互いにとって同じことばで語りたい」
そう思ったからでした。

自分の内側の感覚として育ててきたものと、僕が本で読んできた押韻の分析の形式は、実感としてあわないと気づいたのです。

方法論的に考えはじめる

そして僕は次のような疑問を持ちました。
作詞法を作曲法の比喩としてとらえられなければ、実用性や説得性を欠いてしまうのではないか。

また、実作における実用性だけでなく、歌詞においてなぜ押韻をするのかという抽象的な問題について考えるとき、なぜ音楽は「くりかえす」という構造をもっているのかという音楽学的な問題を経由してから考えることが可能だと思います。
しかし既存の押韻の定義では、歌詞に西洋の音楽理論を適用するためには、方法論的に乖離しているのではないか。
逆に言えば、多少手あらでも「考えるために」、方法論的に作詞法と作曲理論は「統合」されなくてもレイヤーとして「重ねあわされ」てみるべきだと考えたのです。

つまり僕が押韻の定義を考えた発端は、J-POP/アニソンにおける実作の思考法と、それを語るための思考法とことばが乖離している、そのことへの批判と結びつけられるでしょう。