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フシギにステキな素早いヤバさ

フシギにステキな素早いヤバさを追いかけて。俺は行くだろう。

飛び出すときを待つ過去の文章たち(2)

孤独に音楽の批評言語や、J-POPの形式的な記述について考えていたときの文章です。これも未完ですが、こういう発想はいずれ育てていきたい。

第一章 反復感と反復性(2007年)

はじめに


この論考では、私たちの今後の音楽創作において、いわゆる「オリジナリティ」を追求するための理論的な枠組みを築くことが目ざされる。以下に述べられるように、これまでの私たちは、さまざまなライブハウスで散見されるだめなバンド群、つまり、彼ら自身の享受する音楽データベースから彼らに観察された記述的な事実を無批判に規範化し実践する下賤な*1バンド群について否定的に考えるあまり、結果的には、良い意味での「模倣」と「パクリ」との区別についてさえも判断をさけようとし、これまでは自閉的な、原理的な音楽実験のみによって音楽創作を考えてきた。
いうまでもなく、私たちのそのような試みは成功したと僕には考えられる。なぜならば、新宿アンチノック Antiknock でしばしばほめられるようなことの音楽的事実は、私たちの努力してきた点と一致しているように僕には思われるからだ。つまり、ナガクモ―これは私たちのバンドの名前である―は、あるひとつの天井に達した。
ここに至り、ついに、私たちは、私たちの志向する音楽のため、私たちの愛する人々がつくる音楽の諸事実から、批判的な方法によって、規範的な事実をみいだすための方法を模索し、これを試みることにしよう。


私たちは、これまでの私たちが音楽について語るときの言葉を整理する作業によって、私たちの音楽についての解釈をふたたび見直してみたい。なぜなら、音楽の作曲・編曲および演奏においては「言葉」あるいは「概念」が重要な役割を果たすからである。
第一に、音楽では、とりわけ演奏活動では、コミュニケーション行動がつねに必要とされるという事実を考えてみよう。たとえば、音楽の練習スタジオで、あるバンドのメンバーが集まったとき、編曲過程にある楽曲の、演奏とその表現についてのやりとりは、具体的には言葉を通じて行われる。そこでしばしば苛立ちを伴ってあらわれるコミュニケーション上の問題は大きく分けて二つある。同一の言葉が、使用者の使用の内部でも、また使用者間でも、多様な意味を指すためにそれが使われることで起きる、ディスコミュニケーション・ウィズ・アザーズの問題と、そしてもうひとつは、そこに何か言及したい現象が認識されていながらもその現象を適切に指すための用語が即座には見つからないことで起きる、ディスコミュニケーション・ウィズ・マイセルフの問題である。いいかえれば、この二つは、用語・概念の使用方法の問題とその使用能力の問題である。
社会学者・哲学者である大澤真幸佐々木正人の解説を引用してこのような問題についての興味ぶかい観察を示している。なお、佐々木はそこで、 Vygotovsky の描画についての観察を引用しており、次は、その観察の引用である。

子どもは、ある時期になると、自分が描いた線の軌跡(大人にはほとんどランダムな線に見える)に、さかんに名前を与えようとする。そして、いったん、名前が与えられると、描画は、名づけられた事物の表現として、完成し、収斂していくという。たとえば、ある2歳2ヵ月児は、偶然自分が描いた線が何かに似ていることに気づき、これを「顔」と命名することに成功すると、続いて描かれた線は、顔の表現として急速に完成度を増した。通常は顔が描けるのは3歳児程度であるとされているので、この児童の場合、命名の成功が、行動上の著しい発達をもたらしたことになる。このように、言語的な同一措定は、行動の同一性を確定し、それに統一性を与えるわけだ。このように、言語の発達と行動の発達は別のものではない。*2

過去の私たちの音楽の諸活動、すなわち楽曲の作曲・編曲および演奏、とくに作曲活動においては主にナンバーガールが参照され、その音楽傾向が解釈されることによってそれらの方法論的規範は構成された。

(変化したい。変化したいが、いまや私たちの音楽は変化したいために反復される。私たちの音楽においてはいまや変化が強く志向されるからこそ反復が必要とされるのである。したがって、教科書として私たちが参照するところのナンバーガールの音楽もそのように解釈されるべきである。あるいは再度そのように解釈しなおされるべきである。)
(形式的・記号的に楽曲を構成するためには、記号的記述によって操作されることを保証する反復感が定義されなければならない。)

〔メモ〕
●本論は演奏概念の要素を、規範的=譜面=反復性と記述的=解釈=反復感という対立図式によって分類することを目的とする。
●また、記述的な解釈から規範的な解釈にいたる際に生じる論理の飛躍を指摘することも目的とする。
●最終的には、第二章においてその論理を見直してさらに可能な別の論理を提示することで、私たちのための新たな理論を確立することを目指している。

1 記述的、規範的


【記述文法】ある言語圏の一時代の文法現象の体系をあるがままに論述するもの。
【規範文法】ある地域で、そこの人々が手本とすべきとされている話し方、書き方を支えている規則の総体をいう。*3

音楽における個性とはどのような要素をさして用いられてきたのだろうか。つまり、ジャンル名やバンド名を参照してある音楽が批評されるとき、そこで問題となる「パクリ」性とはどのような要素をさしているのか。、あるいは、パクリに対するオリジナリティ、つまり、個性があるとみなされるものをそうでないものからみわけさせている要素は何であるのか。たとえば、前者は他の音楽を参照しながら規範的に捉えて、より規範に近い形で演奏しているとし、また後者は記述的に捉えて、さらに抽象的な分析を経てから規範的にとらえなおしているという仮定の元に、私たちは分析をすることができる。
具体的にいえば、それはこう言い換えることができる。
音楽は、映像表現(映画、アニメなど)とも併せてたびたび指摘されるように、不可塑的な特性をもった芸術である。それゆえ、私たちには音楽が、原則的には受動的な「聴く」という動詞によってしか享受されない。つまり、もしも私たちがある楽曲を聴いているとき、私たちには理解できない箇所に遭遇したならば、もう一度その箇所を聴きなおしたいと思ったとしても、音楽そのものは私たちのその意思を無視して前に進んでいくのである。
この特性は、音楽と映像のどちらについてもが、その非物質性に起因していると考えらる。そのどちらもが私たちの手には触れられない、したがって、私たちにはそれを手につかんで任意の位置に引き戻す可能性が与えられていない。つまり、これが音楽の不可塑的な特性と呼ばれるものである。
しかしながら、もちろん私たちには音楽を物質的な媒体を通すことである程度までは可塑的なものとして体験することもできる。記憶、楽器演奏、楽譜、再生装置(カセットテープ、CD、MD、iPod、…)などによってである。書籍や漫画、絵画が物質的な操作可能性をその享受のうちに一次的な性質として含んでいるのに対して、音楽と映像の操作可能性はあくまでも二次的なものであり、逆にいえばこれらは本質的には操作不可能なのである。

音楽をなんらかの方法で楽曲形式的に区分することについて考えてみよう。私たちには第一に、あるひとつの楽曲をおおまかに三つの部位に区分することができる*4。この事実はひとつの楽曲が私たちの音楽認識において構造的に、ある反復の図式をもって理解されることをあらわしている。
この反復構造の認識、つまり、「1番」、「2番」というくりかえし構造の認識が、実際には楽曲中に内在する明確な構造から直接的に引き出されているわけではないことは、やはりナンバーガールの「透明少女」の構造分析の例からしめされる*5。このような事例はJポップにおける規範的な楽曲形式である「1番→2番」という構造、言い換えれば、「Aメロ→Bメロ→サビ」×2という有名な図式によっては説明しがたい。このような図式から説明を試みれば、「透明少女」は、構成上破綻しているといわざるをえない*6。そして、その構成を破綻させているのは、まさに伝統的には「2番Aメロ」であるべきのパートが、もはやそれとは認められないほどに変形された「だけ」にすぎない。

いずれにせよ、解釈1、2のどちらもが「透明少女」の楽曲形式を、ある反復性をめぐる概念によって説明しようとしている。このような説明のしかたを記述的な説明ということができる。当然ながら、AメロとBメロという概念が厳密に共通に定義されないかぎり、両者の解釈はどちらも正しくかつお互いに矛盾しない。
実際上、このような記述的な分析はすくなくとも楽曲鑑賞の文脈においては私的な場に属するのであり、その概念の定義が初めて問題となるのは他者との議論の場においてである。

ところが、演奏の場ではこの定義はアプリオリになされてきた。つまり、私たちの各々によって暗黙に「Aメロ」という概念は規定・定義され、作曲・編曲上のひとつの単位として用いられてきた。
それでは、なぜ、どのように、その概念の定義は暗黙になされえたのだろうか。その定義は、おそらく、作曲者自身の音楽上の文化的な下地から経験的に導き出されたものと考えられる。私たちのオリジナルの楽曲の作曲・編曲においてあるフレーズがAメロとして共通に理解されているとすれば、それは他の楽曲を参照することによってなされている。たとえば、最初にナンバーガールの「透明少女」が参照され、「赤いキセツ到来告げて」から「記憶・妄想に変わる」までがAメロであるという共通理解が確認される。次に、したがってそのような意味で、このフレーズはAメロであるという指示の伝達が行われているのである。このように私たちは音楽構造の共通理解を、暗黙の経験的な定義を媒介しておこなっているのである。
これは、言い換えれば、特殊事例であった「透明少女」の楽曲形式にかんする記述的な説明を創作上の方法論として規範的に捉え直し、楽曲構造の一般形式として規定しているということである。記述的な説明から規範的な定義へ。そこでは必然的に、論理上の飛躍が行われている。
この飛躍は論理的な手続きによって行われていると考えられる。しかしながら、その論理の手続きはあまりにも迅速に行われるため、私たち自身にさえ把握されていない。その過程を今いちど丁寧にたどり、冗長な論理仮定として記述することが、本章における私たちの目的である。

(未完)

*1:「我々は、そこらへんの下賤なバンドとはちがう」、濱田祐の発言、二〇〇七年

*2: 『身体の比較社会学 1』、勁草書房、一九九〇年、八九頁、注9。

*3:日本国語大辞典第二版 第4巻』(小学館、二〇〇一年)

*4:たとえばナンバーガールの「透明少女」の1番は「赤いキセツ到来告げて」から「気づいたら俺はなんとなく夏だった」まで、2番は「赫い髪の少女は」から「彼女は『涼しい』と笑いながら夏だった」まで、3番は「透き通って見えるのだ」から最後まで、というふうに三つに区分することができる。

*5:前注で挙げたナンバーガールの「透明少女」の1番は「赤いキセツ到来告げて」から「気づいたら俺はなんとなく夏だった」まで、2番は「赫い髪の少女は」から「彼女は『涼しい』と笑いながら夏だった」および「透き通って見えるのだ/狂った街かどきらきら/気づいたら俺は夏だった 風景/町の中へ消えていく」まで、3番は「はいから狂いの少女たちは」から最後まで、というふうに三つに区分することもできる。

*6:解釈は次の2通りが考えられる。//【解釈1】「気づいたら俺はなんとなく夏だった」がサビだとすると、「透き通ってみえるのだ/狂った街かどきらきら」は新しい第2のサビ、とすると「はいから狂いの少女たちは」は第3のサビということになり、説明がつかない。第3のサビは伝統的にいって存在しない。//【解釈2】「透き通って見えるのだ」がサビだとすると、「赤いキセツ到来告げて」から「彼女は『涼しい』と笑いながら夏だった」および「透き通って見えるのだ」までは「Aメロ→Bメロ」×2→サビという構造と解釈される。しかしながらこの構造が反復されないかぎり「Aメロ」「Bメロ」という機能はそもそも認められない。つまり、「Aメロ→Bメロ」×2→サビ→「Aメロ→Bメロ」×2→サビ、あるいは「Aメロ→Bメロ」×2→サビ→「Aメロ→Bメロ」→サビのように2回以上の反復がなければそのような機能はわりあてられない。実際にはこの曲は「Aメロ→Bメロ」×2→サビ→「変形Aメロ→Bメロ」→サビという構造をもっている。