フシギにステキな素早いヤバさ

フシギにステキな素早いヤバさを追いかけて。俺は行くだろう。

新しい音楽への批評のために(2007年)

2007年9月に書いた、僕が音楽批評をしようとした最初の文。
これはマンガや小説と一緒に刷られ、『蒲田通信』と名づけられ、仲良しバンドで行ったライブ会場で配布された。
シジマというバンドの歌について批評をしようとしたが、中絶したもの。批評への思いを綴ったものなので、ここにうpする。
http://www.myspace.com/sizima

ちなみに話の続きはありはするので、読みたい人がいれば書くかもしれない。

新しい音楽への批評のために 〈第一回〉 島袋八起

はじめに いまだ、きたらざる。未来。


哲学者・批評家である東(あずま)浩紀(ひろき)は、アニメ、ゲームについての本格的な批評を試みた時評「メタリアル・クリティーク」第10回(二〇〇五年)で、評論という表現行為の意義を次のように主張する。

僕はむかしから、日本のオタク作品のすばらしさに対し、それについて語る言葉の貧困さに苛立ってきた。批評や評論というと、オタクには顔をしかめるひとが多い。「そもそも評論って必要なの?」と問うひとも多い。そういう人々は、評論についてなにか勘違いをしている。評論が書かれ、読まれるのは、もともとそれ自体が楽しい行為だからだ。(略)作品は、孤独に消費するためだけのものではない。すぐれた作品に出会えば、だれでもそれについて語りたくなるし、そのコミュニケーションの中で作品のおもしろさを逆に発見することもある。作品を、二次的、三次的に味わい尽くす、そのような欲望が自然に評論を生み出す。だから、評論が貧しいということは、作品を長期的に吟味し、語り継いでいく場そのものが貧しいということなのだ。*1

周知のとおり、東は、『動物化するポストモダン*2、『ゲーム的リアリズムの誕生*3等で知られるように、ポストモダンという時代・状況をオタク文化から考えている哲学者であり、また彼は、マンガ、アニメ、ゲーム、ライトノベルといったオタク作品について、あるいはそれ以外の文芸作品についても熱心に批評をおこなっている批評家でもある。
しかし右の引用での彼の主張には、そのようなオタク作品でなく、周囲にある音楽作品についてさらに貪欲に語りたいと真剣にのぞんでいる私たちにとっても、ジャンルの違いを越えて共感できる姿勢が、つまり「それについて語りたい」という情熱がみとめられるだろう。
日本のオタク作品に限らず、私たちが日ごろ親しんでいる商業音楽、つまり、Jポップと称されるような音楽や、アマチュアによって行われている非商業音楽についても、私たちが語るための言葉はとても貧しい。
だから、音楽という表現にたずさわる私たちの心にも、東の主張は素直に響いていると僕には考えられる。

したがって、ここでは右に引用した東の言葉をそっくりそのまま私たちの主張としよう。
マチュアバンドが活動するライブハウスにおいて、互いの音楽を出演者同士で批評し鑑賞しあうことが行われないのは、同時代の音楽を批評するための言葉が貧困なのだからだ。
そして、同時代の音楽への私たちのこの熱い思いを語るにはもはや「かっこいい」、「ロック」、「アジカンっぽい」、「切ない」といった、既存の批評の言葉だけでは、まったく柔軟さ、繊細さが足りないように思われる。
だから、それを満足に語るために、いま私たちは周りにあふれた音楽作品を批評するための新しい言葉たちを探しにいかねばならない。私たちは誰かが先にそれを見つけてくれるまで手をこまねいて待ってはいたくない。

1 シジマとアジカン

たとえば、私たちにはこれまで、ライブハウスのような場で誰かと対面したとき、初めて目にするバンドの演奏や、初めて耳にするそのバンドの楽曲について、即座に互いに批評しあう必要にせまられた場面では、その音楽の批評は便宜的にある特定のジャンル名やメジャーなバンド名が参照されそれがたとえなおされることでなされてきた。つまり「西海岸のパンクっぽいね」とか「アジカンレミオロメンを足した感じだね、ボーカルは全然だめだけど…」のような、ほとんど説明にならないレベルの言葉でしか音楽の批評はなされてこなかった。
しかし、もしそのような単なる「ジャンル名たとえ」「バンド名たとえ」以上の的確な表現で、たったそのときに聞いたばかりの音楽についての批評がいまからなされうるならば、それは私たちの音楽鑑賞がよい演奏・作品についても悪い演奏・作品についても、深まることにほかならない。そして少なくとも僕個人としては、そのような幸福な時代が到来するのをただ待っていることはできない。もはや誰も頼りにならない。だから、実際に僕はこの文章を書かずにはいられなかったのである。
いまから、私たちは様々な時に様々な場所で耳にする音楽について、情熱を動かされたならばすぐに書き、いま目にしているその演奏について懸命に語ることで、そのような批評の言語空間を生み出すことをこころみよう。つまり、今までの私たちにはシジマの音楽について誰かに説明するときには「アジカン」と「イースタンユース」と「ファウル」、「モールス」(この二つはマイナーすぎて駄目かもしれない)を参照しながら、「エモーショナル・パンク」や「ダブ」、あるいは「ヒップホップ」へと音楽ジャンルを特定してみせ、それが「身が震えるほどいい」という主観的な表現をとることしかできなかったが、いまから私たちはそのようなジャンル感覚についての知識の共有ではないかたちで、言い換えれば、たとえばシジマについての感動が、具体的な言葉によって共有されるような環境をこそめざそう。

シジマの音楽性は、ある一面についてアジカン ASIAN KUNG-FU GENERATION の音楽性と似ているように思われる。だから、アジカンが僕にとって格好いいのと同じ意味でシジマも格好いい。
右の主張は、僕がシジマの音楽性に感じていることの一部をしめしている。「アジカン」の項には他にも、「イースタンユース」や「歌謡曲一般」といった項があてはまる。それらを足し合わせればシジマの音楽性はかなり限定して説明されうる。だが、それに続けて「だから、」「シジマは格好いい」とはいえない。そのようにシジマの音楽性から直接に感動の理由を説明することは、なお主観的な説明に思われる。つまりその音楽性についてのお互いの認識が共有されても、その音楽からうけた感動は、なお言葉のうえで互いに共有されないように思われるのだ。せめてその感動について互いに同じ言葉を共有することはできないのだろうか。
ある説明が主観的にみえるとは、つまりそこに論理の飛躍が起きているということである。シジマの音楽性にアジカンとの類似性が読み取られることは、シジマの音楽を一度も聴いたことがない人にとってアピールするポイントがある。なぜなら、端的にいって、アジカンは人気があるバンドだからだ。アジカンのよさを理解する人たちがアジカンの音楽性を経由してシジマのよさを理解する可能性は、かつてに比べればかなり高い。だから「シジマはアジカンに似ているから、格好いい」という説明にはある程度の論理性がみとめられる。つまりそこには「シジマはアジカンに似ている」→「アジカンは格好いい」→「アジカンに似ているシジマは格好いい」という理解の図式が成り立ちうる。
ただし、シジマの音楽がアジカンについての理解を経由して聴かれるなら、音楽性の評価はアジカンコピーバンドとしての価値からスタートして測られることになるだろう。
しかし、私たちがシジマについて語りたい感動のポイントはそこではない。たとえば著名なバンドでいえばアジカンイースタンユース、ファウル、モールス。私たちがそれらを聞いた時に心を動かされる、あのエモーション。それに近い、あるいはそれ以上のエネルギーを持ったエモーションを私たちはシジマに見いだしたのだから本当はその感動について、私たちは語りたいのである。
著名なバンドの音楽性にたとえるのと同様、ジャンル的な音楽性による分類、つまり「エモーショナル・パンク」や「ダブ」、あるいは「ヒップホップ」という位置づけも、やはりその感動の根拠の説明にはならない。
語っている当人にとって「アジカン」と感じられた感動が他人へと言葉にされて投げ出されたとたんに、当人にとっても白々しいリアリティのない説明に感じられるのは、そこに飛躍が起き、論理性がとぼしくなったからである。
それが批評の言葉が貧しいということの意味である。批評の言葉が貧しい、つまりお互いに自分の感動を説明するための言葉が共有されていないとき、私たちの間にはかなしい論理の飛躍が生じてしまう。なぜか。ある人にとっては歌詞の音韻がまさにアジカンのよさであり、別の人にとってはダンサブルな4つ打ちのリズムがアジカンのよさであったとすれば、相互に「シジマはアジカンに似て格好いい」という論理が共有されていても、その論理の内容が、つまり格好よさの意味が異なるだろう。そのような脆弱な論理の共有においては、互いの話の合間合間に「?」マークが挿入されることになってしまう。白々しさ、あるいはシジマについて語ることのばかばかしさが感じられるのは、このような理由による。
シジマの音楽が「アジカン」と感じられ、それゆえに私たちの感動に結びつくとすれば、私たちは次のように問わなければならない。アジカンを通して見えてくるシジマの音楽のよさとは何だろうか? そもそも、私たちはアジカンのどんな要素に感動してきたのだろうか? アジカンとシジマに共通するよさがあるとすれば、逆に、ふたつのよさを峻別する要素はどこにあるのだろうか?

「パンク」「ロック」と、たとえば、「くるり」、「アジカン」、「ファウル」、「ナンバーガール」と、それから、「浜崎あゆみ」、「GLAY」、「スピッツ」、「ミスターチルドレン」と、そして、「シジマ」、「ナガクモ」、「ゼロカケル」とを同じ音楽批評の平面上にならべ、同じ用語によってそれらが論じられるような言語空間をさがしてゆこう、あるいは、つくりだしてゆこう、と私たちは考える。未来とは、私たちの手によってつくりだされるべきもののことであるからだ。
私たちに夢をみることができるのは、そこにおいてだけだからだ。

2 くるりミスターチルドレンの映像喚起力

シジマが二〇〇七年八月現在配布しているCDに収録されている「夕暮れの匂い」は、かれらの他の楽曲にも通ずるように、映像的な音楽性が興味ぶかい*4。というより、僕には感動的である。この「映像的」という用語は僕の知る限り、イースタンユース eastern youth や、既に解散してしまったハスキングビー Husking Bee などの、いわゆるエモーショナルパンクの音楽の解説に用いられることが多く、僕もそのような意味で用いている。この「映像的」という言葉はまた、ナンバーガール NUMBER GIRLくるりまでをもふくめた、いわゆるオルタナティブロックの音楽性について言及されるときにも同様の意味で用いられることが多い。

しかし、章題にも掲げたように、ナンバーガールくるりだけではなく、ミスターチルドレン Mr.Children の音楽についても、やはり「映像的」という言葉は当てはまるように僕には思われる。というのも、「映像的」という言葉が、くるりの音楽にはある映像を喚起する強烈な力がある、という意味で用いられているのだとすれば、同じことは、つまり映像の喚起力という特徴はミスターチルドレンの音楽にも指摘されるからだ*5
とはいえ私たちの実感にもとづいてみれば、くるりミスターチルドレンの音楽性が互いに異質であるのと同様に、そこから喚起される映像の特性もそれぞれ異質である*6
だとすればこのふたつの音楽がともに映像を喚起するとはどういう意味においてなのだろうか? そして、このふたつの音楽が喚起する映像は、互いにどのように異なっているのだろうか?
私たちは、次回その検討をおこなうこととしよう。
〈続く〉

*1:『文学環境論集 東浩紀コレクションL(エル)』、講談社BOX、二〇〇七年、六九四頁。初出の原題は「美少女ゲーム批評の臨界点」、『ゲームラボ』二〇〇五年一月号、三才ブックス

*2: 講談社現代新書、二〇〇一年

*3:講談社現代新書、二〇〇七年

*4:たとえばイントロからAメロにかけて。「(イントロ)」→「(Aメロ)ただ生きるため 僕は戦う/食べていくために 僕は戦う/(Bメロ)逃げ場のない戦場なのに/逃げられる筈もないのに」

*5:たとえばミスターチルドレンの「youthful days」(『IT’S A WONDERFUL WORLD』、二〇〇一年)の1番サビが終わって2番Aメロに入るくだりを考えてみよう。「(サビ)あらわに心をさらしてよ/ずっと二人でいられたらいい」→「(2番Aメロ)『サボテンが赤い花を付けたよ』と言って/『急いでおいで』って僕に催促をする」。このくだりにみられるのは、たとえばTVドラマをビデオに録画しておいたものを連続してみるときに感じられるような、つまり第1話の感動的な終わりから、CM、あるいはドラマのオープニングをはさんで、第2話のあいかわらずの日常的な風景が映し出されるときに感じられるような、ドラマ的なカタルシスから通俗的な日常性へと移行するときの映像の体験の喚起力である。言い換えれば、完結性をもった1つのエピソードのあとに、それを引き継ぐ形で、もう一つの類型的なエピソードがはじまるのをここでは予感させる。なお、「youthful days」(詞・曲/桜井和寿)の歌詞は次のとおり。1番〔にわか雨が通り過ぎてった午後に/水溜まりは空を映し出している/二つの車輪で 僕らそれに飛び込んだ/羽のように広がって 水しぶきがあがって/君は笑う 悪戯に ニヤニヤと/僕も笑う 声を上げ ゲラゲラと//ゆがんだ景色に取り囲まれても/君を抱いたら 不安は姿を消すんだ/胸の鐘の音を鳴らしてよ/壊れるほどの抱擁とキスで/あらわに心をさらしてよ/ずっと二人でいられたらいい〕2番〔「サボテンが赤い花を付けたよ」と言って/「急いでおいで」って僕に催促をする/何回も繰り返し 僕ら乾杯をしたんだ/だけど朝になって 花はしおれてしまって/君の指 花びらを撫でてたろう/僕は思う その仕草 セクシーだと/表通りには花もないくせに/トゲが多いから 油断していると刺さるや/胸の鐘の音を鳴らしてよ/切ないほどの抱擁とキスで/乾いた心を濡らしてよ/ただ二人でいられたらいい〕(後略)

*6:くるりの「青い空(Album Mix)」(『図鑑』、二〇〇〇年)の、やはりサビから2番Aメロへの移行をとりあげてみよう。「(サビ)こんなことは云いたくないのさ/こんなことは云いたくないのさ」→「(2番Aメロ)腰を上げな、わからず屋/全てを破れ」。ここにみられるのは、ドラマ性が失われたかたちでのシーンのすばやい切り替わりである。次回の議論を先取りしていえば、それは映画館の予告編のラッシュにたとえられれる。つまりそこには断片的な感動が、ほとんど物語性を否定するかたちで爆発的な感動をともなってあらわれる。なお「青い空(Album Mix)」(詞・曲/岸田繁)の歌詞は次のとおり。1番〔とぼけるなよ/止まって見えるのは気のせいさ/守るものはここには何一つないさ/伸ばした髪は僕の目や耳を塞いでる/こんなことは云いたくないのさ〕2番〔腰を上げな、わからず屋/全てを破れ/屋根で空が見えないだけ/その汗ばんだ肌からは出逢った頃の匂い/こんなことは言いたくないのさ/何かが違うと考える頭は真っ白に〕(後略)

"The Cultural Study of Music"

大学生の時に渡辺裕先生だったかの原典購読でやった本の日本語訳が出てたらしい。
死に舞さんがたしかそこにはいて、「ナティエを引用する必要あるの?」と言われた覚えがある。
たしかにw

あの頃はあまり知的に磨かれてはいなかったし、今もそう。
でもまあ楽しかったよ。美学は。

その頃の発表用レジュメです。

該当箇所は"The Cultural Study of Music"の"Subjectivity Rampant! Music, Hermeneutics, and History" by Lawrence Kramer
邦語訳では「主観礼賛!音楽・解釈学・歴史」

音楽の感受における《メタ言語》の通時性


木曜2限 美学演習  島袋八起

本論文の要約

クレイマーの全体における指摘は次のようである。
音楽に関する記述は、すべてそれ自身の発生した社会基盤にその特性を支配される。その特性は主観性と呼び習わされ、二十世紀の音楽美学においてはその混入を回避する努力が要求された。が、そこで主観性と呼ばれるものはそもそも歴史的かつ社会的に構築されるものであり、したがって音楽に関する記述においては、記述の内部の仕組みにそれが組み込まれることによって音楽の意味が生み出されるのである。しかし私達は社会的な特質から起こるその主観性について悲観する必要はない。なぜなら私たちの記述が負うているのは結局のところ音楽を生き生きと経験したことによる感動なのであり、かつその生き生きとした経験は、そもそも社会的で文化的な基盤がなくしては私たちに起こりえないからである。
クレイマーはしたがって本論文において、私たちは音楽の主観的記述を社会的かつ文化的基盤から発するものとして肯定的に捉えるべきであり、ある特定の記述はすべて特定の文化基盤の内部で妥当性を判断されるべきと主張するのである。

「偏見の構造」と分析手法との関係

クレイマーのシューマンに関する考察は本論文において二つの役割を持っている。ひとつは上述のように、主観性を否定する音楽美学に対して反駁を行うことである。もうひとつは有効な議論の例をしめしてみせることであり、ここにおいて彼は、主観性の妥当なありかたとして見出される条件が「偏見の構造が記述の中にしめされていること」であり、妥当でないものがそれを含んでいないことを指摘している。
シューマン、ユネカーのいずれについても、「私的にかくされたアイデンティティと公的なふるまいとの引き裂かれ」という、当時の社会一般にみられた偏見の構造がその記述の内部に読み取られるのであり、私たちはその偏見の構造を参照することによってかれらの記述に価値を見出すことができる。一方では「作曲者はハンマーで何度も何度も自分自身の頭を殴りつけるのだ」というビューローの記述が馬鹿馬鹿しいとみなされるのは、この記述には意味を生み出すための手がかりとなるべき当時の偏見の構造が組み込まれてないためである。
クレイマーの言うところの、意味を生み出すために必要な偏見の構造とは、そのような事例によって示されるのである。

意味論的な問題は、音楽を実際の言葉として解読しようとする努力によってではなくむしろ音楽的技術とコミュニケーション的な行動における主要な流れとの相互作用を記述しようとする努力によって解決された。音楽の解釈学において要求されるのは、音楽が時代状況の影響力のいくらかをいかに書き写すかということを示すことであり、音楽を聞くという経験がそれによっていかに支配されているか(あるいはされてきたか)ということを示すことなのである。(本文p.126)

シューマンの発言の前提となっているのは次のような考えである。本当の(あるいは本来の)人格が偽物の(あるいは借り物の)人格に欺かれている。すなわちサマリア人としてのショパンがドイツを経由してイタリアに傾いて行くショパンに欺かれている。どれほど美しかろうとも、従属的な人格は偽物に過ぎない。そしてシューマンの強調するところによれば、楽章の終わりにおいて従属的なその人格は本当の人格に追い抜かれるのである。(同p.131)

そこには典型的な考え、すなわち、ブルジョワは私的で内なるアイデンティティと公的なふるまいとの両方に引き裂かれているという考えがある。シューマンによれば、ショパンサマリア人としての人格は、彼が正統なアイデンティティとしてふさわしいと考えるところの、社会への抵抗者的な属性の範列としてみなされるのである。(同p.132)

記号学的三分法

ジャン=ジャック・ナティエは『音楽記号学*1 のなかで、記号学的に音楽分析の問題を分類するための方法としてジャン・モリノの「記号学的三分法」を取り上げ、これを徹底的に用いている。そこでは創出過程、感受過程、物質的実在としての作品の三つが、分析における象徴形式の三つの側面としてとらえられる。

たとえば上の図版は創出面と感受面とが通時的に関係付けられて説明された例である*2。ここでは「ヴェーベルンの創出活動」と「バッハとルネサンスの作曲家たちに対するヴェーベルンの聴き方」の関係、「ブーレーズ」と「ヴェーベルンヴェーベルンのバッハ解釈」の関係などが示されている。

記号学三分法によって説明すれば、クレイマーの論においては、音楽に対する《メタ言語》としての言説が分析の対象とされている。したがって一次現象としてはショパンの作品の感受面がシューマンの《メタ言語》によって創出され、二次現象としてはシューマンのその《メタ言語》の感受面がクレイマーによって創出されていると説明される。
図式的にクレイマーの音楽分析手法をあらわすと次のようになる。

したがってクレイマーの主張はいいかえれば以下のようになる。
「音楽の意味は実は音楽現象について副次的に生じる《メタ言語》によって生み出される。シューマンの言説について見るなら、ショパンの作品そのものについての感受面がシューマンによって創出されているように私たちは考えがちである。けれども音楽言説のメタ言語性を考えるなら、《メタ言語》間の感受、創出面の関係についても目を配るべきである。実際、シューマンショパン解釈には同時代の音楽言説あるいは他ジャンルの言説が入り込んでいる。この関係をprejudgmentとクレイマーは呼び、私たちの音楽理解においてもこの《メタ言語》レベルでは、通時的な、したがって歴史的・文化的な相関関係によって私たち自身の《メタ言語》を創出することが支えられているため、私たちは音楽の感受面を創出することができる。すなわちこれが音楽が意味を生み出すしくみなのである」

(1)《創出面》。意味を伝えようとする「意思」がまったくないような場合でも象徴形式は「創造過程」あるいは《技法規則》によって生み出されている。そして、その過程を記述し再構成することは可能である。
(2)《感受面》。ある象徴形式に受信者は単数もしくは複数の意味を与えることになる。しかしそう考えると、《受信者》という言葉はもはや適切ではなくなる。なぜなら、前述のように意味が判らなければ、メッセージのもつ意味そのものが《受信》されず、またメッセージそのものが意味を成さなくなるからである。むしろ、意味は《能動的な知覚過程》によって《構成》されているのである。
(3)《中立レベル》。これは《痕跡》と同じ概念である。象徴形式は五感で捉えられる《痕跡》という意味において物理的・物質的な形態をもつものである。ここで《痕跡》と言っているのはそこから創造過程そのものが直に読み取れるわけではないからであり、またその感受過程も(その一部が「痕跡」によって規定されている以上)多くの場合個々の感受者ごとにまちまちであるからである*3

音楽的分析というものはつねに「語られた言説discours」または「書かれた言説」のいずれかの形を取る。だから、それは人間の行為産物であり、また何らかの痕跡を残すために読解・解釈・批判の対象ともなるものである。しかし、音楽分析があらゆる象徴形式とまったく同じように三つの面(創出面・中立面・感受面)をもつとしても、音楽分析の言説は他の対象すなわち「分析される当の音楽的な事実」がなければ成り立たない。言い換えるなら、それは《メタ言語》にほかならないのである*4

*1:足立美比古訳(1996年、春秋社)

*2:同書、第六章、185頁の図版

*3:同書、第一章、p.11-18の引用者による要約

*4:同書、第六章、p.166