フシギにステキな素早いヤバさ

フシギにステキな素早いヤバさを追いかけて。俺は行くだろう。

音韻、歌詞をことばとしてとらえ、歌詞を音楽としてとらえるための

歌詞について語るためのことばとして、「音韻」について自分なりに整理したいと思います。
できるだけ平易に整理できたらいいのですが。

歌詞の「音韻」を考えるにあたって、僕が経由してきた考え方は、

  • 日本語学的なとらえかたと、
  • 音楽理論的なとらえかた

です。
以前にも書いたとおり、僕は、

作詞法を作曲法の比喩としてとらえられなければ、実用性や説得性を欠いてしまうのではないか。

高田馬場を歩きながら ATOK Pad for iPhone でつぶやいたこと - フシギにステキな素早いヤバさ

という考えを持っていて、それに基づき方法論的に、

  • 「文学」や「日本語」としての歌詞
  • 「音楽の一部」としての歌詞

というふたつの側面から歌詞をとらえようとしています。


日本語学的なとらえかたといえば、VOCALOIDプロデューサーさんたちは/音素/ということばになじみがあるだろうと思います。
また、菊地成孔さんと大谷能生さんが書いた『憂鬱と官能を教えた学校』*1では、音楽のもつ情報について語るとき「音韻と音響」ということばが出てきます。
今回はそのふたつを通して、僕が音韻ということばを使うとき、どんな視点から言っているのかを説明しようと思います。

日本語の音韻

日本語の音韻 - Wikipedia を参照します。

日本語の音韻というものを上のように規定すると、これは結局、仮名で区別されるものとほぼ同じであることになる。仮名が日本語を表音的に表記する文字といわれるゆえんである。

日本語の音韻 - Wikipedia

このようなとらえかたは、ふつうの日本語を考えるときにひろく用いられています。小中学校で習う国語はこの考え方にもとづいているでしょう。
さて、僕は日本語の歌詞について考えるとき、「音韻は仮名で区別されるものとほぼ同じ」という立場を、便宜的に取っています。裏がえせば、漢詩や洋楽でいうところの「子音/母音」という区別を、あえて意図的にしない、ということです。なぜか。
それは、

  • 歌詞について語ったり説明をしたりするときに、できるだけ直感的に歌詞のことばをあつかうため。
  • 作詞をするときに方法論として利用する際、自己採点がしやすく、自分自身に対してより説得的だから。

だから、僕がふつう歌詞を考えるときには、できるだけ次のようなルールで考え、どうしても説明がよろしくないときだけ、「子音/母音」ということばをつかって考えてみるのです。

方法論として歌詞を考えるときのルール
  1. 日本語の音韻は、書かれる文字とほぼ同じであると考える。「夏」は「なつ」
  2. 日本語の歌詞に英語が出てくる場合にも、まず日本語表記でとらえてみる。「Summer」は「さまー」
  3. 「夏」は「NATSU」だから「N、TS」の子音と「A、U」の母音という韻だ、と考えるのは最後の手段にとっておく。

音楽における「音韻と音響」

THE SACD REVIEW:音韻と音響(菊池成孔の著作から)から引用させていただきます。

それで、音韻と音響ですが、次のように説明してます。「音韻」は音楽の要素のうち記号化できるもの、例えば楽譜に残せる情報。「音響」は音楽の要素のうち記号化できないもの、例えばホールの響き、楽器の響き方。

特に「憂鬱と〜」で詳しく説明されているバークリー・メソッドは、主として音韻情報を操作することを覚えるもの、という位置づけです。

THE SACD REVIEW:音韻と音響(菊池成孔の著作から)

引用したブログは、菊地成孔さんと大谷能生さんの書いた『憂鬱と官能を教えた学校』という本に出てくる「音韻と音響」という概念についてふれているものです。*2
ここでいう「音韻」とは、ドレミファソラシドなどのように、音譜やMIDIといったかたちで記号化して記録できる情報です。*3
対して、「音響」とはそのように記号化できない要素のことです。たとえば、楽器において、とあるメロディーを奏でるとき、ドレミファソラシドであらわせる「音韻」は別の楽器でも置き換えることができますが、「そのバイオリンの音」や「このライブハウスでの音」といった「音響」は別の楽器や別の場所ではけして再現することができません。

操作の対象としての歌詞の音韻

これになぞらえて歌詞における「音韻と音響」ということを考えるならば、歌詞の「音韻」とは表記された文字にあたることになります。対して、歌詞の「音響」とは、それを歌う人のそれぞれの声や、歌唱法や、歌う場所にあたることになるでしょう。
また、『憂鬱と官能を教えた学校』で菊地-大谷さんは、作曲において音韻情報を操作することがここ最近のポップスのモードだった、と述べています。
歌詞においてこのことを比喩的にとらえるなら、歌詞もまた「意味」以上に、「音韻情報」に注目して操作され、作詞されているのではないでしょうか。


*1:河出書房新社、2004年

*2:僕は田舎の実家に本書をおいてきてしまい、本文を引用したくとも今手元にないため、よそさまのブログから要約をひっぱってきました。

*3:たしか、記号化から可能になったこの「記録」によって音楽は複雑化できたのではないかと菊地さんは述べていたように思います。「音韻情報を操作することを覚える」とは、ジャズやポップスにおいて、あるメロディーを下敷きにして即興的なメロディーを作曲したり、あるメロディーに対して複雑なコードをあてはめるといった作曲・編曲技術のことです。