フシギにステキな素早いヤバさ

フシギにステキな素早いヤバさを追いかけて。俺は行くだろう。

【読書メモ】赤間啓之『デッサンする身体』より「『デッサン』という言葉」

最近、美術作家の杉本克哉さん([twitter:@sgkas])とたまに話したりする機会があり、その中で「デッサンってなんだろ」と思うことがあった。作家さんとふれあう機会ってあまりないので、いろいろ気になることを質問したりする。

デッサンに関心をもった経緯としては、ぼくが「音楽でいうところのコード進行とか、あるていどアーティスト同士が話し合える共通の事項ってあるじゃないですか。美術だと何にあたるんです?」って質問を投げかけたところ、杉本さんはしばらく悩んだ末、「強いていうならデッサンかな。少なくとも美大に入った人はデッサンができる。つまり、ものを正確に見て描くということができる。そして、それは日本画のひとがいちばん上手いといわれている」と答えてくれた。

そこで、たまにデッサンとは何かについてググったり、自分でもなんとなくデッサンと思われる行為をしたりしていた。

前から気になっていた『デッサンする身体』*1を図書館で見つけたので、この質問の役に立たないかと手に取ったのである。

まだぜんぜんちゃんと読めてないが、気になったところをメモ取った。

メモ

以下は、同書の「はじめに」(pp.8-27)の第1節、「『デッサン』という言葉」にかんするメモおよび抜粋である。

この節では、日本語にフランス語経由で導入された「デッサン」という美術的な概念が、どういうことばなのかということを語源的に検討することからはじめる。

フランス語にはdessinということばとdesseinといういずれもおなじ「デッサン」という発音で示される概念がある。これらはルネッサンス期のイタリアのことばからきているようだ。

さて、現代では前者のdessinは主にかくことを、後者のdesseinは構成、構図を考えることをいうらしい。これは英語ではdrawing、designということばとの対応にちかい。

語源からまず迫ってみるというのは初歩的な方法だが、やはりこういわれるとおもしろいなぁと思う。ここで赤間さんが主張したいのは、デッサンということばには、元来手を使ってかくことそのものと、図案を考えることの両方が包含されていたが、時代が下るにしたがってこれらが職能や機能によって分けて考えられるようになったということなのだろう。

抜粋

デッサンに対して、デザインということばを考えると、

同じ線といっても直線、あるいは円、放物線、双曲線のように幾何学的に定式化が可能な単純な曲線が、構成要素として主要なものとなるだろう。(p.10)

なるほど。面白い。

教育におけるデッサンの起源について。つまり、dessinとdesseinを包含するようなデッサンとはどういう概念だったのかについて。

そもそも著名なスイスの教育学者ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチが、デッサンを大々的に教育に取り入れたのは、狭い意味での美術教育のために限定しようとしてのことではなかった。彼が生徒に教え込もうとしたデッサンは、立方体、円錐、球面のような単純な幾何学的図形をうまく組み合わせて現実のさまざまなモデルを再構成する手法であった。現実のオブジェを理想的構成要素によってシミュレートすること、あるいは現実的複雑さを、直観的に把握できる単純な基本要素に還元すること。つまりもののイメージを概略化して伝達可能なものにする役割を、デッサンは与えられていたのである。(pp.10-11)

この箇所は非常に面白い。ぼくの先入見では、デッサンとは複雑なものを複雑なままに主観をできるだけまじえずに、平面へと投影していくような光学的な絵画方法だと思っていた。ここでは、むしろ複雑なものを「再構成」するために、幾何学的で単純な基本要素に還元するのだという。たしかに、それはデッサンでもあり、デザインでもあるようにみえる。

*1:ぼくは「ナントカの身体」というタイトルの本が好きなのだ。とくに大澤真幸の『身体の比較社会学』とか最高