フシギにステキな素早いヤバさ

フシギにステキな素早いヤバさを追いかけて。俺は行くだろう。

ステキってなにか?

この記事はふわりPへの批判ではない。「せーのっ!」における歌詞表現の特殊さについて、「この違和感はなぜ生じるのか」を考えている。ちなみにゆゆ式で一番好きな女の子は「日向縁」で、一番好きな歌は「せーのっ!」である。

明日をのぼる

ぼくのTLの中では、「このゆゆ式が終わったら、俺死ぬんだ…」という人が続出している。

みんな気にしてないのか、そういうものだと思っているのか知らないが、「せーのっ! 歌詞 意味」でぐぐったりしても、歌詞考察記事等はひっかからないみたいだ。

毎日ぼくは「明日をのぼって」って何だろう。だれがのぼっているんだろう。どこにのぼっているんだろう。そんなことばかり考えている。

「明日へ」ならなんとなくわかる。「へ」は方向を表すのだから、「明日+へ+のぼって」ならば、「明日という希望へ向かって、比喩的に、坂などのたかいところへのぼると、空を見上げることができる」という意味にとることができる。

だがしかし、「明日+を+のぼって」ということは、「を」は対象や場所を表すのだから、まさに明日を踏み台としてのぼっている様をさすのであって、「空を見上げるために、明日をのぼったら、広がったあかりが見えた」というような話になる。

「明日をのぼる」って?

擬人法

ふわりPの「せーのっ!」の歌詞は、おそらく意図的に語法がずらされているのであって、「単に感覚的につくられた」とはいえないとぼくは考えている。

歌詞の構造をそのまま文法的に解釈するのが正しいという信念はないが、「せーのっ!」の歌詞は主述がきちんと係り結びあって、対応関係にあるように記述されている。

したがって、下記のように歌詞を主語+補語+述語という形式として正確に再構成することが可能だ。

このことは、原則的には歌詞によってイメージを結ぶことが基本的に可能であるという枠組みを示していると思う。

  • 「あかりが+手を+つないだ」
  • 「カバンが+そよ風に+およぐ」
  • 「小石が+(カバンもしくはそよ風が)吹き抜けたあとを+追いかける」
  • 「陽は+今日も+ほほえんで」
  • 「香りは+小道を+まがった」
  • 「陽は+香りを+優しく+包みこんだ」

主語群に注目すると、「あかり」「カバン」「そよ風」「小石」「陽」「香り」という、風景にあらわれる無機物たちである。

述語群に注目すると、「つないだ」「およぐ」「追いかける」「ほほえんで」「まがった」「包みこんだ」という、動作にむすびつけられる述語だ。

このような組み合わせから、ふわりPは単純に「擬人法」を利用した比喩を行っているだけではないかと指摘することもできるだろう。また、このようなレトリックからは簡単に擬人法を経由して、カバンがそよ風に泳いだり、あかりが手をつないでいるイメージを結ぶことは可能である。

ふたたび、明日をのぼるって?

明日をのぼって 空を見あげたら

広がったあかりが きらりきらりきらり 手をつないだ

http://www.kasi-time.com/item-66186.html

「空を見あげたら、広がったあかりが手をつないだのが見えた」というイメージは、ふつうに青春物にありそうなイメージであり、理解できる。だが、「明日をのぼって」がわからない。鉄塔をのぼるでも、屋上をのぼるでもなく、明日をのぼっているのである。

ぴっかぴかのステキが待つ

同じような問題は、次のくだりにもあらわれる。

見わたせば ぴっかぴかの

ステキがいつも待ってる

http://www.kasi-time.com/item-66186.html

明日をのぼったり、見わたしたり、顔と顔を合わせたりしているのはおそらくヒトにちかい存在だろうというのはわかる。

「ステキが+いつも+待ってる」

この語法はどうなっているのだろうか。

ゆゆ式にはまっているシュルるさんが、この問題なのか、文法的なところなのかわからないが突っ込みを入れていた。つまり、「ステキな友だちが待っている」「彼女はステキだ」というふうに用いられる語を、「ぴっかぴかのステキが待ってる」といえるのか、ということ。

この語用じたいは、「明日をのぼって」と同じくらい違和感のある使い方だが、「ぴっかぴかのあかりが待ってる」だと、擬人法を介して理解できるのに、「ステキ」が「明日」と同様に実体を普通はもたない概念だからおかしいのだろうと思う。

形式的には名詞化するために、

  1. 「こと」や「もの」を補って、「ステキな+こと」や「ステキな+もの」が「待っている」と言い換えたり、
  2. 「さ」を語幹につけて「ステキさ」が「待っている」と言い換える、

という表現のしかたがある。ふわりPはこの慣用的な用法を用いずに、「ステキが」と表現しているために、用法の特殊さが際立っている。では何を意味しているのか?という違和感がここに強調される。

いちおう明記しておくが、ぼくやシュルるさんがいっているのは、だからふわりPはダメとかそういうことではなく、「この歌詞表現は自然な用法として受けとれるのか、人工的なレトリックで、わたしたちは違和感を当然感じていいものなのか」ということを検討しているにすぎない。自然な用法なら、頭を変えて自然に受けとればいいし、不自然で人工的ならばそういうものとして納得すれば良い。

そして「ぴっかぴかのステキがいつも待ってる」という表現は今のところ、不自然な用法として判断する。

JK

JapanKnowledgeは、すばらしいことに、ゆゆ式を語るのにおあつらえむきの「JK」という略語を冠した会員制辞書サイトであり、『日本国語大辞典』という辞書を引くことができるステキなサイトである(会費が要る)。

日本国語大辞典』では、単にことばの意味のみならず、歴史的な用法とその変遷などが調べられる。

ステキということばの深層に何が眠っているのかということを調べるため、検索してみた。

以下の引用元は、『日本国語大辞典 第二版』(小学館)となる。

す‐てき 【素敵・素的】

(「すばらしい」の「す」に「てき(的)」のついたものという。「素敵」はあて字)

これはちょっとびっくりである。なお、「ステキ」のスは「すばらしい」からきた、という説もあるという程度らしい。用例を見る限り、用法は江戸時代以降にみられるものらしい。滑稽本や歌舞伎のセリフなどが挙げられている。まず、形容動詞としての用法1を見てみよう。

【一】〔形動〕

(1)程度がはなはだしいさま。度はずれたさま。滅法。

  • 滑稽本浮世風呂〔1809~13〕前・上「すてきに可愛がるから能(いい)」

  • *歌舞伎・四天王産湯玉川〔1818〕二番目「駕籠は知らねえが、歩いちゃア素的(ステキ)に寒い」

英語でいうとterribleみたいなものだろうか。「すてきに可愛がる」は現代の用法に似ている気もするが、「ステキに寒い」を今いうとニュアンスが違う気がする。ここでは「すごく寒い」という意味だが、ふつうに現代で用いると「寒いけどテンションあがってくるわ〜」みたいな意味に取られるであろう。

はなはだしい程度をあらわすフラットなことばが、時代が下るにしたがって、すごく良いものかすごく悪いものに用法が絞られていくのはよくあることだろう。

つぎに用法2を見てみる。なお、日本国語大辞典では、用法1→用法2という順序が、時代が下るのに対応しているので、新しい用法に近いと考えられる。

(2)非常にすぐれているさま。すばらしい。

  • *歌舞伎・敵討噂古市(正直清兵衛)〔1857〕五幕「殊に今度の山田奉行大川十右衛門といふは、すてきな人だといふ噂だから、こいつあ久七さん、思案ものだよ」

  • 或る女〔1919〕〈有島武郎〉「愛子は、ふむ、これは又素的な美人ぢゃないか」

「ふむ、ゆかりは又すてきな美人ぢゃないか」

「ぢゃないか」って、これ今見るとJKっぽいね。

ここまでは、形容動詞としての用法なので、ふわりPの例とは異なり「ステキに」「ステキな」という用法であった。

だが、名詞としての用法もあったのである。

【二】〔名〕

「すてき(素敵)【一】(2)」のような人。特に、美人。

  • *歌舞伎・綴合新著膝栗毛〔1863~80〕二幕「『親方衆に素敵(ステキ)を見せに、一緒に連れて来ようわいなア』『娘っ子なら幾人でも遠慮なしに連れて来なさい』」

「娘っ子なら幾人でも遠慮なしに連れて来なさい」ってww

なお、【一】(2)とは、先ほどあげた「【一】形容動詞用法の(2)非常にすぐれているさま」の略記である。

とにかく、「ステキを見せる」が主意としては「ステキな人を見せる」「ステキな美人を見せる」という意味で用いられていることがわかる。古文解釈の基礎技法として、形容詞等のかかる体言が省略されてわからないときは「人」か「物」か「とき」などを補う(準体法)というのがあるが、まさにその例であり、「ステキ(な人)を見せに」と解釈される用法なのである。

ふわりPの用法も、「ステキがいつも待っている」であるので、「ステキ」をそのまま体言として理解するほかない。その際、

  1. 詩的で独特な用法として「ステキ」という概念が直接に擬人化/実体化されていると受け止めるべきなのか、
  2. 「ステキな時間」「ステキな人(たち)」「ステキなこと」「ステキな世界」など、言い換えもしくは省略と受け止めるべきなのか

については、各自が好きずきに判断するほかない。

さて、ひきつづき『日本国語大辞典』の語誌欄を見てみよう。これは語用の変遷などについて考察を交えて解説する欄である。

【語誌】

(1)スバラシイとの関係は明確でない。

(2)【一】(1)が本来の意味であり、一九世紀初頭ころから、江戸のやや俗な新しい流行語として、庶民の間で用いられはじめたものらしい。

(3)明治に入ると、【一】(2)の意味に限定されてくる。現代では、女性が使うことが多い。

(4)初期の例は多く仮名書きであるが、後に「素的」の表記が広まり、昭和以降は次第に「素敵」が一般化したようである。

江戸時代には、独特なことばづかいが見られることがあるが、このステキのつかいかたも「やや俗な流行語」と説明されているように、ひねった用法(不自然さがむしろ用法のニュアンスを際立たせる)だったのだろう。

なお、ぼくがこのブログなどに「ステキ」というフレーズを用いているのは、椎名林檎の影響で、彼女か誰かが「好きだと恥ずかしいし、良いだと客観的すぎるから、好きなものにはステキですね、ということにしている」ということを言っていたのを受けて、ほめるときには意識的に「ステキ」ということばを使うようにしているのである。