フシギにステキな素早いヤバさ

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【シノハラ初め】「音色の話」(Togetter)からピックアップ(」・ω・)」うー!(/・ω・)/にゃー!

流行りに乗るのは得意ではないが、何の何選とかが流行っているようなので、「今年、ぼくのセカイに革命を起こしたブログ記事」などをやろうとはてなブックマークを見返していました。

すると、3年ほど前のシノハラユウキさんの面白いまとめを見つけて、これについて再度メモをしておきたいと思いました。

シノハラさんの問いは面白い

起点はこのまとめです。

音色の話 - Togetter(まとめ2009年12月1日)

音楽とは一体何かとかいうと大げさだな。つまり、がんがんに歪ませたエレキギターの音とかって、単に鳴らしただけじゃ雑音でしかないのに、こううまい具合に鳴らすと音楽になるのかなあ、と

Twitter / sakstyle : 音楽とは一体何かとかいうと大げさだな。つまり、がんがんに歪ま ...(太字強調は引用者による)

記録によると、このシノハラさんのツイートは2009年9月5日に発せられたものであるようです。

ここで、シノハラさんは音色、特に音楽的な(あるいは美的な)音色についての話をしています。面白いのは、以下のような対比を用いて音色を評価していることです。

  • 雑音である音
  • 音楽になる音

シノハラさんがこのような対比を用いて音楽/音色を評価しているということは、裏返せば、雑音である音と音楽になる音を連続したものとして聴き取って、美的な判断からそこに境界を見いだしているということです。

ぼくからすると、彼のそのような耳のあり方は独特で魅力的なものに見えます。

それから2年ほどを経て、おそらくそのような耳を育ててきたシノハラさんは、『VOCALOID CRITIQUE』Pilot号において発表された「声ならざる声のために」では、次のような文章を為しています。

fumikahihyou_005|声ならざる声のために/シノハラユウキ(@sakstyle) (2011年6月12日)

合成音声には、人間の音声とは異なり合成音声特有の響きがある。人間の音声ほどクリアではなく、機械の中をくぐってきたという感触をうけるものである。それは無機質さ、平坦さ、あるいは滑舌の悪さとして認識されている。そのため歌詞が聴き取りにくく、VOCALOIDの歌う歌の歌詞を聴き取れることをボカロ耳などと呼ぶこともある。

fumikahihyou_005|声ならざる声のために/シノハラユウキ(@sakstyle)(太字強調は引用者による)

ここにあるのはまず、先に挙げた「雑音である音/音楽になる音」というテーマの変奏としての以下の対比です。

  • 声ならざる声
  • 声である声

ところが、この対比は2009年よりも繊細な議論になっているように思われます。というのは、「声ならざる声」へのフォーカスとは、「声」と「そうでない音」の間にある境界を注視していることを示しているからです。実際、上記論文の「前置き」でシノハラさんはVOCALOID楽曲を声という音を使ったインスト曲であるという前提に立ち、次いで、声優という例を経由することで声のキャラクター性を示します。初音ミクを初めとするVOCALOIDたちは、果たしてキャラクターであろうか。キャラクターであるならば、そこにもまた同じ声のキャラクター性が成り立つのではないだろうか(なお、このキャラクター性は声に付加された視覚的な像によって担保されるとシノハラさんは考えているようです)。

(いや、次の一文を見るに、彼はその点についてはそこまで追究して考えているわけではないかもしれません。)

声の主のキャラクター性は必ずしも必要ではなく、その声の音としての特質だけで充分自律しうるのだ。

彼は、NANIKA SHEILAの「ねむれないよる(初音ミクオリジナル曲) ‐ ニコニコ動画:Q」を引き、次のように述べます。

ところが、このミクの声が出ている間、イラストのミク(のような生き物)は目を開けているのである。

(同上)(太字強調は引用者による)

クリアでなく滑舌の悪い「合成音声特有の響き」を持つVOCALOIDの歌は、画像や動画をレイヤーの前面に持つことで(=キャラクター性を持つことで)、歌詞を聴き取らせる。そこに「声という音」が「声ならざる声」として境界性を持って立ち上がる瞬間をシノハラさんは見ているのだと思います。

この現象はまた、無生物音源を用いたUTAUでも見られることがわかります。まげ=えりくささんが『VOCALOID CRITIQUE』Vol.05で発表した「人ならざる者の歌声」では、無生物音源が「歌っている」ように聞こえる例として、柚子音ぽんが紹介されています。

本記事の最後に置いた短い動画「ゆずぽんメランコリー」を見ればわかるように、あの柚子ぽんのキャップから発されるような機械的な音が、あたかも「ぽんぽん ゆずぽん ゆずゆずぽん」とでも歌っているように見えます。柚子音ぽんの踊る様子に愛着が湧くとすれば、そこには確かにキャラクターが(同時に声のキャラクター性が)立ち上がっているといっていいのではないでしょうか。


つづいて、文学フリマでのフリーペーパーおよびねとかるにおいて公開された「Go-qualia試論」は、シノハラさんによる音楽批評の傑作であるとぼくは考えています。

轟音が誘う異世界への扉――Go-qualia試論 | NETOKARU(2012年5月14日)

崇高とは、もちろんただ巨大なものへの驚異に尽きるわけではない。元を辿れば、山々に対する美的な感覚として使われてきた言葉であるが、桑島秀樹は特に大地を凝視する地質学的な視線に崇高の感覚を見出そうとしている。巨大なものの細部や断片凝視することによって、自らの感覚では到達できないもの(感性的な無限、あるいは表象不可能なもの)へと到達しようとすることを崇高の美学として論じている。

(中略)

Go-qualiaには、とかちトロニカと呼ばれる一連のシリーズがある。これは、『アイドルマスター』の双海亜美の声だけを用いて作られた作品である。ベースから上物から何から何まで、声を徹底的に加工した素材だけで組み上げられた音楽なのである。ここで素材として切り刻まれる声というのはいわば断片であるのが、それへの徹底した拘りによる音楽制作は、桑島が論ずるところの崇高の美学とどこか通じるところがあるのではないだろうか。

轟音が誘う異世界への扉――Go-qualia試論 | NETOKARU(太字強調は引用者による)

ここで語られている声の断片化による「崇高」論のモチーフはすでに「声ならざる声のために」でも示されてたものでしたが、「Go-qualia試論」ではそのモチーフの追究が行われています。

「声ならざる声」でアニメ声優、初音ミクや柚子音ぽんによって示された声のキャラクター性と声への愛着とは、同語反復的になってしまいますが、声の声性(声である声)といったものの成立について注目していたということができるでしょう。

一方、「Go-qualia試論」では、断片化されたことで先鋭化される声の音性(音になる声)が積み上げられた結果、「崇高さ」を生み出すということを論じていますが、その際に『セカンドアフター』Vol.1からてらまっとさんの「ツインテールの天使」論を引き、次のように結びつけたのはとてもユニークな指摘だと思われます。

てらまっとは、梅ラボやthreeの現代アート作品が、断片を積み上げることによって、キャラクター(に対する愛の不可能性)に到達しようとしていることを論じ、そのことを「天使にふれる」体験と呼んでいたが、上述した音楽作品にも同様な体験があるように感じられるからだ。

(同上)(太字強調は引用者による)

てらまっとさんが「ツインテールの天使」で論じていたのは、画像やフィギュアといった形態でキャラクター性を保持しているキャラクターたちは、断片化されることで「シミュラークルアウラが脱落」するということでした(『セカンドアフター』p.32)。

てらまっとさんによれば、「分解可能で反復可能」なシミュラークルは「人間的・有機的な総体性」を持つが、その有機的な総体性が破壊されることで「断片的・無機的なアレゴリー」へと変容する(同書、p.34)。それらの断片をひたすら積み上げることで、私たちは奇跡に触れることができるといいます。レトリカル的な表現ですが。おそらく次の一節はそのようなことを主張しているでしょう。

私たちは奇跡の到来を待ち望みながら、散乱する無数の断片をひたすら積み上げていく。午後の穏やかな光を浴びて、積み重ねられた断片がひとつの影を形づくる——復活を暗示する女神の姿が浮かび上がる。

『セカンドアフター』Vol.1、p.35

「ツインテールの天使」論では、キャラクター性がいわゆる「データベース」的なシミュラークルを前提にしているため、同じ議論が声のキャラクター性にも適用できるかは疑問です。ですが、シノハラさんがいうように、断片化された声(音になる声)の積み上げ(ふたたび声になる音?)が崇高さをもたらすという考え方については、並行しているといえるのではないでしょうか。

uccelliさん

『フミカ』でDrum'n'Wordsとして一緒にワークブックを書いていただいたuccelliさんがある時、このようなことについて、「音色とは、ある面から見れば和音のことであり、ある面から見れば音色と感じられるような音の複合体である」といったようなことを話していたことがあります。

それは、『フミカ』でも次のような表現で触れられています。

その響きは単一の音色に聴こえるか、それとも複数の音が重なった和声に聴こえるか。なぜわれわれはそれを容易に判別できるのだろうか、ということを考えてみる。周波数ごとの音量のバランス、差音の強弱など、様々な判断材料を考えることはできる。しかし結局のところ、音の動き、音の始まりと終わりによってつくられる「輪郭」(envelope) が最も強い決定要因なのではないだろうか(ハモンドオルガンなどではその打鍵の瞬間に「カチッ」というクリック音、いわば子音を混ぜることもできる)。

uccelli「擬音・言語・音楽」p.78(『フミカ』所収、フミカレコーズ、2012年)(太字強調は引用者による)

uccelliさんの主張は、「音の始まりと終わり」が同じ音を示すものとして認識されるかという心理的なゲシュタルトの問題として音をとらえよう、ということでしょう。したがって、「単一の音色に聴こえるか」それとも「複数の音が重なった和音に聴こえるか」は、倍音構成の問題というよりも、音の始まり、または終わりが一致して単数として聴こえるか、それともばらばらに複数として聴こえるかという問題に還元できるだろう、ということです。

本ワークブックでは、音色の特性を言語音になぞらえ、「擬音」の操作を通じて考えようとしています。そこでは、音色は「子音」の響きと「母音」の響きの合成(ゲシュタルト)としてとらえられます。たとえば、あるメソッドでは「ずぅ」という音の発音において、次第に子音と母音をそれぞれ長めにのばすことで「zzzzzzzzz」と「uuuuuuu」のふたつのゲシュタルトに分割できるようになるという事例が示されます。

このように、音色の認知も一種のグルーピングと考えられる。音の始まりと終わりがある程度揃っていると、輪郭をもったひとつの音色としてグルーピングされやすくなる。

(同上、pp.78-79)

ここまでで、シノハラさんの話とuccelliさんの話にはどこかで接点があるような気がするのだが、今日はメモとし、結論は投げます。

動画

ねむれないよる by NANIKA SHEILA

ゆずぽんメランコリー by とくになし(おばけホテルP)

ソース