画面の前景と縁辺へ焦点を誘導する〜中山いくみ・大西晃生 二人展「貌」
原宿のGallery KTOにて開催中の二人展「貌」(かお)が明日12/27(日)最終日を迎える。
中山いくみと大西晃生によるペインティングを中心とした展示で、キュレーションをワタナベが行なっている。中山、大西、ワタナベそれぞれは気鋭の作家/キュレーターだ。注目される。
ギャラリーKTOで開催中の中山いくみ・大西晃生二人展はこの土日で会期末を迎えます。
— ワタナベ (@tc_watanabe) 2020年12月25日
未見の方はお急ぎください₍₍⁽⁽🧸₎₎⁾⁾
作家たちが在廊の予定です。https://t.co/R151z3J1xS pic.twitter.com/7l5TkE3TsM
中山いくみは5年来ぐらいの友人である。作家としてリスペクトしていて、なおかつ友人として応援したい。なので本記事では中山いくみの作品について書く。
写実とコンセプト
中山いくみには二つの特徴が備わっている。
写実的な画家である
コンセプチュアルな画家である
中山は「実物」または「写真」を見ながら描いたように見える像を描いている。つまり、陰影や造形の精度に重きがおかれ、あたかもそのような人間が実在しているように描く。なおかつ鑑賞者にも実際にそのような人物(像)が実在していることがよく知られているような著名人の像を描く。
その像は肖像として、捨象や強調あるいは付け足しをしながらその人物を理想化して描かれているだろう。対象を見る・理想化する・描くという行為を通して中山はクリエイティブに表現を行うのである。視覚的には、像の明瞭さ/不明瞭さを対比して、コンセプチュアルには描く対象の崇高さ/卑近さを対比しているようである。
円形の画面は、枠(額)と図のふたつに分割されている。図はさらに二層に分かれる。背面の肖像と前面の水滴である。
背面の肖像と、前面の水滴とで明瞭性の対比が作られている。我々は知的には背面の著名な人物の不明瞭な造形に注目しながら、視覚的には前面の水滴に注目せざるを得ない。それだけではない。肖像の縁辺にある額へと視覚を誘導されている。そこには説明的にいくつものアイテムが、解読を促すように描き込まれている。
肖像と水滴、そして額
中山の写実性は二つの表現に引き裂かれているように見える。すなわち、A) 明瞭に像を再現することと、B) 不明瞭に像を描くことである。つまり、A) 目の前に、くっきりと、鮮やかに、あたかも目の前に像があるようでありながら、B) なおかつその明瞭性を否定して、ぼんやりと、歪んだ、遮られて捉えられない像を描くこと。
視覚の深度と知識の深度(はっきり見える/ぼやけてよく見えない VS よく知っている/あんまり知らない)を絵画で問おうとしている。
図像やそれの意味するところを読み解き、解説する余力は筆者にはないが、少なくともこの装飾的に見える額は「読め」と命じている。ではそこに何が描かれているのか?
額を読め
ブルーの肖像画の額を読んでみる。
初音ミクの骸骨のようなもの。手はなく袖口が空洞になっている。皮、内臓、骨が描かれている。
ヒント
理由はわかりませんが、最近額を作っているそうです。
中山には額が重要らしい。